2024年1月28日日曜日

製造方法の記載のない化学物質の開示は「刊行物に記載された発明」とは認められないと判示された事例

令和6116日判決言渡

令和4(行ケ)10097号 審決取消請求事件

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/666/092666_hanrei.pdf

 

1.概要

 本事例は、被告が有する特許権に対し原告が請求した無効審判の審決(請求棄却、権利有効の判断)に対する、審決取消訴訟の知財高裁判決である。知財高裁もまた無効理由は存在せず審決は適法であると判断し、原告の請求を棄却した。

 本件特許の請求項1に係る発明は、ジイソプロピルアミノシランに関する化合物発明である。本件特許の発明の詳細な説明には、ジイソプロピルアミノシランを、シリコン含有膜の形成のための前駆体として用いることが記載されている。

 原告は、本件請求項1に係る発明は甲1に記載された発明であり新規性がなく無効であると主張した。

 知財高裁は、甲1には「ジイソプロピルアミノシラン」は形式的には記載されていることを認めたが、製造方法や入手方法が記載されていないから、特許法2913号の「刊行物に記載された発明」とは認められず、本件請求項1に係る発明の新規性は甲1によっては否定されないと結論づけた。

「特に、少なくとも化学分野の場合、化学物質の化学式や名称を、その製造方法その他の入手方法を見いだせているか否かには関係なく、形式的に表記すること自体可能である場合もあるから、刊行物に化学物質の発明としての技術的思想が開示されているというためには、一般に、当該化学物質の構成が開示されていることに止まらず、その製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。」

 

2.裁判所の判断のポイント

「ウ 甲1に記載された発明の化学物質として「ジイソプロピルアミノシラン」を特許法2913号の「刊行物に記載された発明」に認定することの可否

()判断基準

a特許法291項は、同項3号の「特許出願前に・・・頒布された刊行物に記載された発明」については特許を受けることができないと規定し、同条2項は、同条13号に掲げる発明も含め、「特許出願前にその発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が前項各号に掲げる発明に基いて容易に発明をすることができたとき」については特許を受けることができないと規定するものであるところ、上記「刊行物」に物の発明が記載されているというためには、同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが、発明が技術的思想の創作であること(同法21)に鑑みれば、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に、当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。

 特に、少なくとも化学分野の場合、化学物質の化学式や名称を、その製造方法その他の入手方法を見いだせているか否かには関係なく、形式的に表記すること自体可能である場合もあるから、刊行物に化学物質の発明としての技術的思想が開示されているというためには、一般に、当該化学物質の構成が開示されていることに止まらず、その製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。また、刊行物に製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載がない場合には、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要であるというべきである。

b以上を前提として検討するに、上記イ()のとおり、1には、実質的に「SiH3[N(C3H7)2]」との化学式に対応した化学物質の名称である「ジイソプロピルアミノシラン」が記載されているといえるものの、甲1によってもその製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載は見当たらない。

 したがって、甲1に記載された発明の化学物質として「ジイソプロピルアミノシラン」を認定するためには、甲1に接した本件優先日前の当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、本件優先日前の技術常識に基づいて、「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法その他の入手方法を見いだすことができたといえることが必要である。

()「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法その他の入手方法に関する技術常識の検討

a原告が本件審判で本件優先日前のアミノシランを製造する方法に関する技術常識の根拠として提示をした甲12及び甲16には、それぞれ以下の記載がある。

(a)12の記載事項「ジメチルアミノシランはC及びDによってジメチルアミン及びクロロシランの反応から求められた・・・E及びFは、ジメチルアミン及びブロモシランからアミノシランを85%の収率で調整した。・・・G及びHは、ジメチルアミノシランのn.m.r.スペクトルを研究し・・・彼らは、ジメチルアミン及びヨードシランから彼らのサンプルを調製した・・・」(652頁左欄1~19)

「ジメチルアミン及びジエチルアミンは気相中でヨードシランと迅速に反応し、ほぼ定量的な収量で対応するジアルキルアミノシランを生成した。

SiH3I+2NHR2→SiH3NR2+NH2R2I(R=MeEt)(1)(652頁左欄20~24)

「ジメチルアミノシラン-調製。ヨードシラン(522.4mg3.31mmol)は気相中でジメチルアミン(286.1mg6.37mmol)と反応した。装置は説明されている。蒸気が混合されるとすぐに、白い固体が煙として生成された。室温にて15分後、揮発性生成物をポンプで取り除いた;4時間を要した。生成物(237.0mg3.16mmol95%)は、-96°に保持しながら、繰り返し分画することにより精製された。」(654頁左欄下から13~5)

「ジエチルアミノシラン-調製。ヨードシラン(260.6mg1.65mmol)は気相中でジエチルアミン(239.0mg3.27mmol)と反応した。15分後、すべての揮発性生成物をポンプで取り除いた(<1/2時間)-78°に保持しながら、フラクションにより、ジエチルアミノシラン(167.4mg1.63mmol99%)を得た。」(654頁右欄下から6~2)

(b)16の記載事項「ジエチル(シリル)アミンのサンプルは、ジエチルアミンとクロロシランの気相中での反応により調製された。」(34010~11)

bそして、甲12及び甲16の上記各記載事項によると、ジメチルアミノシランやジエチルアミノシランが、ジメチルアミンやジエチルアミンと、ヨードシランやクロロシランの反応により製造できること、当該反応は気相中、室温下で進行することについては、本件優先日前の技術常識であったといえる。他方、「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法が本件特許の優先日前に知られていたことを認めるに足りる証拠はない。

cまた、原告は「アルキル基の嵩高さによる立体障害の存在により、反応が進行しにくくなることはあっても、反応そのものが進行しないわけではなく、反応速度や反応生成物の収率の問題が生ずる程度である」と主張するが、原告作成の甲218(36)によっても「立体障害とは、Rが嵩高いことで、SiNの間の結合が邪魔されて、反応が進行しにくくなること」と説明されているように、一般に、化学反応の進行のしやすさは、分子の立体障害の違いにより変わることが知られているところ、原告が本件優先日当時のアミノシラン類の合成に係る技術常識を示すものとして提出する甲202においても、「ジイソプロピルアミノシラン」の合成方法に関する文献の記載がないことに加え、甲202に挙げられている合成方法に関する文献が記載されたアミノシラン類の7つの化合物(ジメチルアミノシラン、ジエチルアミノシラン、ジフェニルアミノシラン、1-アゼチジニルシラン、1-ピロリジニルシラン、1-ピロリルシラン、1-ピペリジニルシラン)の合成方法や条件を比較しても化合物によって合成の反応条件が異なることからも、仮に反応式が一般化できたとしても、当業者にとって、その下位概念に含まれる化合物の合成方法が直ちに理解できるとか、又は技術常識であったとまでは認められない。

dそうすると、本件優先日前において、甲12及び甲16に記載されるように、メチルアミノシランやジエチルアミノシランが、ジメチルアミンやジエチルアミンと、ヨードシランやクロロシランの反応により製造できることは技術常識であったとしても、ジイソプロピルアミノシランを製造できることまでは知られていなかったものといえる。

eさらに、甲10112は、被告の分割前の会社であるエアプロダクツアンドケミカルズインコーポレイテッド(本件特許登録時における特許権者)が、本件優先日の翌年の2006(平成18)927日に、ジイソプロピルアミノシランをCAS(アメリカ化学会の下部組織であるChemical Abstracts Serviceの略称。アメリカ化学会が発行するChemical Abstracts誌で使用されるCAS登録番号の登録業務を行っている。)に登録し、「公に公開されることを認め、了解します」と陳述したものであって、それ以前にジイソプロピルアミノシランがCASに登録された事実はうかがわれないこと、本件優先日やCASの登録の2006年以降、DIPASが記載された文献が増えており(138)、本件出願の公開やCASの登録が契機となってDIPASに関連する文献が公表されることになったものと認められる。

 そして、このほか、本件優先日前の当業者が、ジイソプロピルアミノシランの製造方法その他の入手方法を容易に見いだすことができたと認めるべき事情はうかがわれない。

()小括

 以上によると、甲1に接した本件優先日前の当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、本件優先日前の技術常識に基づいて、ジイソプロピルアミノシランの製造方法その他の入手方法を見いだすことができたとはいえない。この点、原告は甲12及び甲16の記載に基づく実験結果(3031212216)をもって、本件優先日当時、ジイソプロピルアミノシランが製造できたと主張する。しかし、そもそもこれらの実験は、本件優先日後に事後的に行われたものである上に、これらの実験結果についてみると、甲30や甲212に記載された沸点はジイソプロピルアミノシランの沸点と一致せず、甲216には、それらの記載の沸点が誤記であることの説明がされているものの、誤記の合理的な説明がされていないこと、甲31の実験は液相反応であって甲16の実験の条件である気相反応を満たしていないことなどの疑義があり、その信用性に疑問があるほか、これらの具体的な実験内容によっても、当業者が思考や試行錯誤等の能力を発揮するまでもなく、製造方法その他の入手方法を見いだすことができたと評価できるものではなく、原告の上記主張は採用できない。

 したがって、甲1に記載された発明の化学物質として「ジイソプロピルアミノシラン」を、特許法2913号の「刊行物に記載された発明」と認定することはできない。

 よって、甲1に記載された発明として「ジイソプロピルアミノシラン」が記載されていることを前提とする原告の主張はいずれも理由がない。」

2024年1月13日土曜日

図面のみに基づく訂正の適法性が争われた事例

知財高裁令和51221日判決
令和5(行ケ)10016号 審決取消請求事件
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/607/092607_hanrei.pdf
 
1.概要
 本事例は、被告が有する特許権に対し、原告が請求した無効審判審決(請求棄却、特許維持)に対し、原告が求めた審決取消訴訟の知財高裁判決(請求棄却)である。
 無効審判において、被告は請求項12を以下のように訂正した。この訂正で追加された「前記凹槽の下表面は、前記底板本体の下表面よりも下方に突出しており、」という特徴は、発明の詳細な説明には記載がなく、図5を根拠とするものである。
 原告は「特許出願の願書に添付された図面は正確とは限らないから、図面に基づく訂正を認めるべきではない、本件図5は不明瞭であるから、これに基づく本件訂正の結果も不明瞭である」から、訂正要件を満たさないと主張した。
 これに対し裁判所は「本件図5は、「底板本体の下表面」と「凹槽の下表面」の位置関係を理解するために必要な程度の正確さを備え、本件訂正の根拠として十分な内容が図示されている」と判断し、訂正は適法であると結論した。
 
2.訂正の内容
 
【請求項12(本件審決による訂正前のもの)
 前記底板本体の下表面と前記凹槽の下表面間に高低差があることを特徴とする、請求項1から11のいずれか一項に記載のワイヤレススカッフプレート。
 
【請求項12(本件訂正後のもの。下線部は訂正箇所を示す。)
 前記凹槽の下表面は、前記底板本体の下表面よりも下方に突出しており、前記底板本体の下表面と前記凹槽の下表面間に高低差があることを特徴とする、請求項1から11のいずれか一項に記載のワイヤレススカッフプレート。
 
3.裁判所の判断のポイント
「取消事由1(本件訂正を認めた判断の誤り)について
(1)本件訂正は、訂正前の請求項12の「前記底板本体の下表面と前記凹槽の下表面間に高低差があることを特徴とする」との事項に「前記凹槽の下表面は、前記底板本体の下表面よりも下方に突出しており」との事項を追加して特定することにより、「底板本体の下表面」と「凹槽の下表面」の位置(上下)関係を明瞭にするものである。
 そして、本件図5(別紙2「本件明細書等の記載事項(抜粋)」参照)から、凹槽211の下表面2111は底板2の本体の下表面22よりも下方に突出していることが見て取れるから、上記訂正は、本件図5に記載した事項の範囲内においてしたものである。
 したがって、本件訂正は、明瞭でない記載の釈明(特許法134条の213)を目的とするものであり、同条9項、同法1265項及び6項の規定に適合するものであって、審決の判断に誤りはない。
(2)これに対し、原告は、特許出願の願書に添付された図面は正確とは限らないから、図面に基づく訂正を認めるべきではない、本件図5は不明瞭であるから、これに基づく本件訂正の結果も不明瞭である旨主張する。
アしかし、まず、特許請求の範囲の訂正は、願書に添付した図面の範囲内においてすることが明文上認められている(特許法134条の21項、9項、1265)そして、本件図5は、「底板本体の下表面」と「凹槽の下表面」の位置関係を理解するために必要な程度の正確さを備え、本件訂正の根拠として十分な内容が図示されているものである
イ「底部」(0022)がどの部分を指すのか不明との点に関しては、訂正後の請求項12の「前記底板本体の下表面」と「前記凹槽の下表面」について、本件明細書【0017】の記載から、それぞれ本件図5の「底52の本体の下表面22」と「凹槽211の下表面2111」を指していることが明らかである。【符号の説明】【0022】では「2111」を「底部の下表面」と記載されているが、「底部」が「凹槽211」の底部を指すことは、本件図5から明らかである。