2018年11月11日日曜日

分割出願の特許性判断と親出願での意見書の主張とは別個のものであると判断された事例


知財高裁平成30年10月11日判決
平成29年(行ケ)第10160号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は無効審判審決(特許有効の判断)を不服とする原告(無効審判請求人)が請求した審決取消訴訟の知財高裁判決において、審決が維持された事例である。
 対象となる被告の特許権の請求項1(訂正発明1)は「但し,マンニトールを含まない組成物である」という「除くクレーム」である。明細書の実施例ではマンニトールを含む例しか記載されていない。また、被告特許権に係る特許出願は分割出願であるが、分割原出願の審査過程で被告が提出した意見書ではマンニトールを含有しない組成物では変色抑制効果が認められないと述べていた。
 原告は分割要件違反、サポート要件違反を主張した。しかし知財高裁は、本件出願と本件原出願とは別個のものであるから,本件原出願の審査過程における被告の主張が本件特許のサポート要件適合性を左右するとはいえないことなどを理由に、原告の請求を棄却した。

2.本件訂正発明1
「(a)ベシル酸アムロジピン,(b)酸化鉄,(c)炭酸カルシウム及び結晶セルロースからなる群より選ばれる少なくとも一つの賦形剤,並びに(d)デンプンを含有し,デンプンの含有量が30重量%以下であり,かつ被覆層を有しない経口固形組成物(但し,マンニトールを含まない組成物である)。」

3.原告(無効審判請求人)の主張
分割要件違反(取消理由3)
本件訂正発明1は,積極的にマンニトールをその構成から除外しようとするものであるのに対し,本件当初明細書には,特に好ましい賦形剤の具体例としてマンニトールが挙げられ,かつ,実施例及び比較例の全例にマンニトールが等しく添加されている
 さらに,被告は,本件原出願の審査過程で提出した平成20年6月19日付け意見書において,自ら実施した実験結果の説明として,マンニトールを含有しない組成物では変色抑制効果が認められないと述べている。これは,酸化鉄の着色防止効果につき,マンニトールを配合することによって顕著な作用・効果が生ずる,すなわち,酸化鉄とマンニトールの組合せこそが課題解決に重要な必須の構成であるとの主張にほかならない。
 上記のような本件当初明細書の記載及び審査過程における被告の主張内容を踏まえると,本件原出願に係る発明に,当該発明を構成する組成物の成分からマンニトールを積極的に除外しようという技術思想が含まれていなかったことは明らかである。
 したがって,本件訂正発明は,本件当初明細書に含まれない新規事項に該当し,本件出願は分割要件に違反するものであるから,これに反する審決の判断は誤りである。」
サポート要件違反(取消理由4)
「上記3のとおり,本件原出願に係る発明には,当該発明を構成する組成物の成分からマンニトールを積極的に除去しようという技術思想が含まれていなかった。
 したがって,本件明細書の記載に接した当業者は,マンニトールが添加されていない場合においても,アムロジピンに酸化鉄を配合することで,光安定化したアムロジピン含有経口固形組成物が得られることを認識できるとは到底いえない。
 よって,本件特許は,サポート要件に適合しないものであるから,これに反する審決の判断は誤りである。」

4.裁判所の判断
「4 取消事由3(分割要件適合性についての判断の誤り)について
(1) 原告は,本件当初明細書の実施例及び比較例の全てにマンニトールが等しく添加されている上に,被告が,本件原出願の審査過程において,進歩性欠如の拒絶理由に対して行った効果の顕著性に関する主張に鑑みれば,本件原出願に係る発明には,当該発明を構成する組成物の成分からマンニトールを積極的に除外しようという技術思想が含まれていなかったことが明らかであると主張する。
(2) そこで検討するに,本件当初明細書の実施例及び比較例では,いずれもマンニトールを含む組成物のみが用いられていることは当事者間に争いがない。
 しかし,本件当初明細書において,マンニトールは任意成分である賦形剤として記載されており,ソルビトール,マルチトール,還元澱粉糖化物,キシリトール,還元パラチノース及びエリスリトールなどの代替し得る成分も併せて記載されていることからすると(甲26の段落【0021】及び【0022】),本件当初明細書の記載において,マンニトールを含有しない組成物が排除されているとはいえない。
 また,原告は,本件原出願の審査過程における,効果の顕著性に関する被告の主張を問題とするが,分割出願に係る発明が原出願の当初の明細書等に記載された事項の範囲内であるか否かは,当該明細書及び出願時の技術常識等に基づいて客観的に判断するのが相当であるから,原告の主張はその前提において失当である。」

「5 取消事由4(サポート要件適合性についての判断の誤り)について
(1) 原告は,本件明細書の記載に接した当業者が,マンニトールが添加されていない場合においても,アムロジピンに酸化鉄を配合することで,光安定化したアムロジピン含有経口固形組成物が得られることを認識できるとは到底いえないから,本件特許はサポート要件に適合しないと主張する。
(2) そこで検討するに,特許請求の範囲の記載がサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載又はその示唆により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断すべきものと解される。
(3) 本件についてみると,本件訂正発明の課題は,アムロジピン又はその塩の光による変色及び分解を簡便に防止し,光安定化した経口固形組成物を提供することである(本件明細書の段落【0007】)ところ,上記第2の2のとおり,本件訂正発明はマンニトールを含有しない組成物に限定されている。
 確かに,マンニトールは,本件明細書において,服用性の観点から口腔内崩壊型製剤に添加することが好ましいとされた水溶性賦形剤である,水溶性糖アルコール,糖類,甘味を有するアミノ酸類(【0022】)のうちの,水溶性糖アルコールの一つとして,ソルビトール,マルチトール,還元澱粉糖化物,キシリトール,還元パラチノース及びエリスリトールなどとともに挙げられたもので,その中でも,特に好ましいものとされている(【0023】)。その一方で,本件明細書には,課題を解決するための手段として,アムロジピン又はその塩に酸化鉄を配合することにより,被覆層を必要とすることなく非常に簡便に光安定化された経口医薬組成物が得られる旨が記載されているところ(【0012】),光安定化効果に対するマンニトールの作用については何ら記載がなく,かえって,マンニトールは実質的に本件訂正発明の効果に影響を与えない添加剤として位置付けられている(【0027】)。また,ベシル酸アムロジピンに酸化鉄を配合することによる薬物の光安定化効果に,マンニトールが何らかの影響を与えるとの技術常識を認めるに足りる的確な証拠もない。
 そうすると,本件明細書に接した当業者は,本件明細書の実施例の全てにおいて,マンニトールを含む組成物のみが示されているとしても(【0033】表1),それは服用性向上のために含有されているものにすぎず,ベシル酸アムロジピンに酸化鉄を配合した組成物であれば,マンニトールを含まない組成物であっても光安定化効果が発揮されると理解すると認めるのが相当である。また,炭酸カルシウム,結晶セルロース及びデンプンについても,本件明細書には任意成分である賦形剤として記載されているところ(【0024】,【0027】),当該各物質が,ベシル酸アムロジピンと酸化鉄とを含有する組成物における光安定化効果に対し,何らかの影響を与えるものであるとの技術常識が存在することを認めるに足りる証拠も見当たらない。
 したがって,ベシル酸アムロジピン及び酸化鉄とともに,炭酸カルシウム,結晶セルロース及びデンプンを含む本件訂正発明も,当業者が発明の課題を解決できると認識可能な範囲内のものであるといえるから,上記原告の主張は採用することができない。
(4) また,原告は,取消事由3と同様に,本件原出願の審査過程における被告の主張を問題とするが,本件出願と本件原出願とは別個のものであるから,本件原出願の審査過程における被告の主張が本件特許のサポート要件適合性を左右するとはいえない。
(5) 以上によれば,原告主張の取消事由4は理由がない。」

2018年10月28日日曜日

医薬用途の効果を証明するための後出しデータの考慮される範囲

知財高裁平成30年10月22日判決
平成29年(行ケ)第10106号 審決取消請求事件
1.概要
 本事例は無効審判審決(特許有効の結論)に対する審決取消訴訟において、審決を取り消した知財高裁判決である。
 甲1号証に対する進歩性が争われた。明細書には効果に関して「上記の治療方法に従って治療された患者は,全体的に改善された生存者,及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」という記載はあるが具体的な数値データは示されていない。本発明の効果の顕著性を証明するために特許権者が提出した出願後の刊行物(乙1号証等)を証拠として考慮すべきかどうかが争点の1つとなった。
 特許庁審決では、出願後の刊行物を本発明の効果を裏付ける証拠として考慮した。一方、知財高裁は、明細書に記載の定性的効果を示すという限度において参酌することができるにとどまるとし判断した。
2.本件特許発明1
「ErbB2タンパク質が発現した乳腫瘍であると診断されたヒトの患者を治療するための,治療的有効量のヒト化4D5抗ErbB2抗体を含有してなる医薬であって,該治療が(a)該医薬によって患者を治療する,(b)外科的に腫瘍を除去する,及び(c)該医薬又は化学療法剤によって患者を治療するという工程を順次行うことを含む治療である,医薬。」
3.明細書に記載の効果
 本件訂正明細書の実施例には,・・・抗HER2抗体を,随意的にパクリタキセル(TAXOL(登録商標))と組み合わせて手術前に患者に適用した効果を示すものとして,「上記の治療方法に従って治療された患者は,全体的に改善された生存者,及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」と記載されている(【0119】)。
 しかし、記載されている効果は上記の「定性的」な効果にとどまり、効果の程度を示す「定量的」データは明細書には示されていない。
4.審決の判断(出願後に公開の文献乙1等を考慮)
 審決では以下の通り、出願後に公開された論文を、上記段落0119に記載の効果を裏付ける証拠として考慮した。
「無効理由1についての判断で先に述べたとおり,本件特許発明1は,相違点1,すなわち,ヒト化4D5抗ErbB2抗体を含有してなる医薬を,(a)該医薬によって患者を治療する,(b)外科的に腫瘍を除去する,及び(c)該医薬又は化学療法剤によって患者を治療するという工程を順次行う治療に適用する点で,甲1発明と相違する。
 そして,本件特許発明1は,この点を採用することにより,本件訂正明細書に記載の「全体的に改善された生存者,及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」(段落【0119】)なる効果を奏する,とされるものであり,これらの効果は,乙第1~5号証において実際に確認されているといえるから,乙第1~5号証にて示されたトラスツズマブの効果は,本件特許発明1の効果として参酌すべきものである。そして,乙第1号証においては,手術可能乳がんを有する患者におけるpCRの改善幅が41.7%(66.7%(トラスツズマブ+化学療法群,n=16)-25%(化学療法群,n=18))であったことや,40.4%(66.7%(トラスツズマブ+化学療法群,n=23)-26.3%(化学療法群,n=19))であったことが示され,乙第3号証には,局所進行又は炎症性乳がん患者におけるpCRの改善幅が,乳房組織において21%(43%(トラスツズマブ併用)-22%(非併用))であったことや,乳房組織及び腋窩リンパ節の全体において19%(38%(トラスツズマブ併用)-19%(非併用)=19%)であったこと,及び,3年無イベント生存率の改善が示されている(なお,著者及び記載内容からみて乙第3号証と関連する,乙第2号証にも「NOAH試験」なる研究における乙第3号証と類似の結果が記載されているものと認められる。)。」
5.裁判所の判断
「イ 被告は,本件訂正明細書の発明の効果の定性的な記載に基づき,具体的な実験データを参照することは妥当であるから,甲17,19〔審判乙1,3〕に基づき本件特許発明1には顕著な効果があるなどと主張する。
 しかし,前記アのとおり,本件訂正明細書の記載及びこれから推論できる本件特許発明1の効果は,本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまる。そこで,本件優先日後の刊行物である甲17,19〔審判乙1,3〕の実験データを,本件訂正明細書の記載の範囲で,上記定性的効果を示すという限度において参酌するとしても,前記アのとおり,上記定性的効果は当業者が予測可能なものであるから,顕著な効果を示すものということはできない。他方,甲17,19〔審判乙1,3〕の実験データを,上記定性的効果を超えて参酌することは,本件訂正明細書の記載の範囲を超えるものであるから,これを本件特許発明1の効果として参酌することはできない。その余の本件優先日後の刊行物である甲18,20,21〔審判乙2,4,5〕についても,同様である。
 したがって,本件優先日後の刊行物である甲17~21〔審判乙1~5〕については,その具体的内容を検討するまでもなく,本件特許発明1に顕著な効果があることを示すものということはできない。」

2018年9月29日土曜日

独立特許要件違反による補正却下を違法と判断した知財高裁判決

知財高裁平成30年9月10日判決
平成29年(行ケ)第10213号 審決取消請求事件

1.概要
 本件は審決取消訴訟において拒絶審決が取り消された高裁判決である。
 本事例では、請求項1に係る発明が,特願2010-194145号本件先願の願書に最初に添付された明細書,特許請求の範囲又は図面に記載された発明と同一であり,特許法29条の2により,特許を受けることができない、という理由で拒絶査定がされ、出願人(原告)は、拒絶査定不服審判の請求と同時に請求項1を限定的に減縮した。これに対し特許庁は前置審査において、新たに、引用文献1及び2を引用し、補正後の本願発明は進歩性を有していない(特許法29条2項違反)として独立特許要件違反+補正却下+補正前の本願発明は拒絶査定の理由(特許法29条の2違反)で拒絶されるべきものであると指摘した。出願人(原告)は前置審査の結果に対して上申書を提出した。審決では拒絶理由通知が通知されることなく、前置審査と同じ理由で、補正を却下し、拒絶査定とした。
 知財高裁は、「特許出願に対する審査・審判手続の具体的経過に照らし,出願人の防御の機会が実質的に保障されていないと認められるようなときには,同法159条2項により準用される同法50条本文に基づき拒絶理由通知をしなければならず,しないことが違法になる場合もあり得るというべきである」と判断し、審決を取り消した。

2.裁判所の判断のポイント
1 取消事由1(拒絶理由通知欠缺による手続違背)について
(1) 本願について,審決に至る経緯をみると,次のとおりである。
ア 前記第2の1のとおり,本願は,審査段階で本件拒絶理由通知(甲10)を受けたが,その拒絶理由は,①請求項1に係る発明が,特願2010-194145号(特開2012-050540号,本件先願)の願書に最初に添付された明細書,特許請求の範囲又は図面に記載された発明と同一であり,特許法29条の2により,特許を受けることができない旨,及び,②請求項1の「有利量」に係る記載について,有利量が具体的に特定されておらず,それぞれの有利量の内容が同じ構成も含まれるが,発明の詳細な説明では,そのような構成については記載も示唆もされていない点において,同法36条6項1号の要件を満たしていない旨の二つであった。
 そして,本件拒絶査定(甲11)は,本件拒絶理由通知記載の上記拒絶理由①を拒絶理由とするものであった。
イ 前記第2の1のとおり,原告は,本件拒絶査定に対し,本件拒絶査定不服審判請求をするとともに,本件補正を行ったことから,本件拒絶査定不服審判請求は,審査官による前置審査に付された。
 そして,審査官は,平成29年2月3日付け前置報告書(甲22)において,①本願補正発明は,新たに引用された文献である特開2008-284231号公報(刊行物1)に基づき,特許法29条1項3号及び同条2項により,独立特許要件を充足しない,②本願補正発明は,構成要件Hの「当該特定演出を実行することで有利量の付与を報知し」との記載中の「有利量」が,特定演出に係る有利量であるのか,特定演出の実行中に決定された有利量であるのかが判断できず,発明が不明確であるから,同法36条6項2号により,独立特許要件を充足しない,③したがって,本件補正は,同法17条の2第6項において準用する同法126条7項に違反するから,同法159条1項において読み替えて準用する同法53条1項により却下されるべきものであり,本願は,本件拒絶査定の理由に示したとおり拒絶されるべきものである旨を報告した。

ウ 原告は,平成29年3月30日付け上申書(甲23)を提出し,前記イの前置報告に対し,本願補正発明が新規性及び進歩性を有する旨反論した。
エ 審判合議体は,原告に対し,改めて拒絶理由通知をすることなく,前記第2の1のとおり,平成29年10月11日,本件補正を却下した上,本件拒絶査定不服審判請求は成り立たない旨の審決をした。
 審決は,前記第2の3(1)イのとおり,本願補正発明が刊行物1に基づき特許法29条1項3号及び同条2項により独立特許要件を充足しないことを,本件補正を却下する理由とした。
(2) 本件補正は,特許法17条の2第1項4号所定の審判請求時補正として同条5項2号所定の限定的減縮を目的とするもの(審判請求時補正〔限定的減縮〕)であるから,同条6項により準用される同法126条7項により,本件補正後における特許請求の範囲に記載されている事項により特定される発明(本願補正発明)が特許出願の際独立して特許を受けることができるものでなければならない(独立特許要件)。
 また,同法159条2項により準用される同法50条本文は,拒絶査定不服審判において査定の理由と異なる拒絶の理由(新拒絶理由)を発見した場合は,その新拒絶理由を通知して意見書を提出する機会を与えなければならないとしているが,同法159条2項により読み替えて準用される同法50条ただし書は,同法159条1項により読み替えて準用される同法53条1項による補正却下の決定をするときは,この限りでないとしており,同法159条1項により読み替えて準用される同法53条1項は,審判請求時補正が同法17条の2第6項に違反するときは,決定をもってその補正を却下しなければならないとしている。
 そして,前記(1)のとおり,審決が本件補正を却下する理由とした,①本願補正発明が刊行物1記載の発明と同一であること(同法29条1項3号),②本願補正発明が刊行物1記載の発明に基づいて容易に発明をすることができたこと(同条2項)は,本件拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由(新拒絶理由)であるとともに,独立特許要件違反の理由ともなるものである。
 そこで,審判合議体は,同法159条2項により準用される同法50条本文により拒絶理由通知をすべき義務は,同法159条2項により読み替えて準用される同法50条ただし書により適用がないものとして,前記第2の3(1)のとおり,審決において,本件補正が同法17条の2第6項により準用する同法126条7項に違反することを理由として,同法159条1項により読み替えて準用する同法53条1項を適用して本件補正を却下したものである。
(3) しかし,特許法50条本文は,拒絶査定をしようとするときは,出願人に対し拒絶理由を通知し,相当の期間を指定して,意見書を提出する機会を与えなければならないと規定し,拒絶理由を通知した場合には,同法17条の2第1項1号又は3号により出願人には上記指定期間内に補正をする機会が与えられる。これは,出願人に対し意見書の提出及び補正による拒絶理由の解消の機会を与えて,出願人の防御の機会を保障するとともに,その意見書を基にして審査官が再審査をする機会とする趣旨であると解される。そして,同法50条本文は,同法159条2項により拒絶査定不服審判において査定の理由と異なる拒絶の理由(新拒絶理由)を発見した場合に準用されており,上記の出願人の防御の機会の保障という趣旨は,拒絶査定不服審判において新拒絶理由が発見された場合にも及ぶものである。
 また,同法53条1項(同法159条1項により読み替えて準用される場合を含む。)により特許請求の範囲の記載についてした補正が却下された場合には,既に拒絶理由が通知された補正前の特許請求の範囲の記載(以下,「補正前クレーム」という。)により拒絶理由の有無が判断されることになるから,拒絶査定又は拒絶査定不服審判請求不成立審決に至ることが少なくないが,審査段階において同法17条の2第1項3号所定の補正(以下,「3号補正」という。)がされた場合には,従前の拒絶理由通知に示されていなかった新たな刊行物(以下,「新規引用文献」という。)に基づく独立特許要件違反を理由として,その3号補正が却下され,補正前クレームに基づいて拒絶査定がされたとしても,拒絶査定不服審判請求等において補正後の特許請求の範囲の記載(以下,「補正後クレーム」という。)に基づく独立特許要件違反の判断の当否や補正前クレームに基づく拒絶理由の判断の当否を争い得ることに加え,審判請求時補正により,新規引用文献に基づく拒絶理由を回避するための補正をする機会がある。これに対し,新規引用文献に基づく独立特許要件違反を理由として,審判請求時補正が却下され,補正前クレームに基づいて拒絶査定不服審判請求不成立審決がされてしまうと,審決取消訴訟において補正後クレームに基づく独立特許要件違反の判断の当否や補正前クレームに基づく拒絶理由の判断の当否を争うことはできるものの,審査段階における3号補正の場合とは異なり,新規引用文献に基づく拒絶理由を回避するための補正をする機会が残されていない点において,出願人にはより過酷であるということができる。
 さらに,同法53条1項(同法159条1項により読み替えて準用される場合を含む。)において,3号補正及び審判時請求補正が独立特許要件に違反しているときはその補正を却下しなければならない旨が定められ,同法50条ただし書(同法159条2項により読み替えて準用される場合を含む。)において,同法53条1項(同法159条1項により読み替えて準用される場合を含む。)により3号補正及び審判請求時補正を却下する決定をするときは拒絶理由通知を要しない旨が定められたのは,平成5年改正によるものであるが,同改正においては,3号補正及び審判請求時補正については,既に行われた審査結果を有効に活用することができる範囲とするとの観点から,その目的を特定のものに限定することが定められ(目的要件の創設),その一つとして限定的減縮が定められた(平成5年法による改正後の特許法17条の2第3項2号。この規定が平成6年法律第116号による特許法改正によって現行特許法17条の2第5項2号の規定となったが,実質的な変更を伴うものではない。)。このような改正経緯に照らすと,平成5年改正は,審判請求時補正〔限定的減縮〕においては,審査段階における先行技術調査の結果を利用することを想定していたことが明らかであり,審判請求時補正〔限定的減縮〕を却下する際に,独立特許要件の判断において,審査段階において提示されていなかった新規引用文献を主たる引用例とするなど,審査段階において全く想定されていなかった判断をすることは,平成5年改正の本来の趣旨に沿わないものということができ,そのような場合に,同法159条2項により読み替えて準用される同法50条ただし書をそのまま適用することについては,慎重な検討を要するものということができる。
 加えて,平成5年改正により,同法50条ただし書(同法159条2項により読み替えて準用される場合を含む。)において,同法53条1項(同法159条1項により読み替えて準用される場合を含む。)により3号補正及び審判請求時補正を却下する決定をするときは拒絶理由通知を要しない旨が定められたのは,再度拒絶理由が通知され,審理が繰り返し行われることを回避する点にあると解される。もとより,審理が繰り返し行われることを回避することにより,審査・審判全体の効率性を図ることは,重要ではあるが,新規引用文献に基づく独立特許要件違反を理由として審判請求時補正を却下せずに,この新規引用文献に基づく拒絶理由を通知したとしても,限定的減縮である審判請求時補正による補正後クレームについて,特許法17条の2第3項~6項による制限の範囲内で補正することができるにすぎないから,審理の対象が大きく変更されることは考え難く,そのような審理の繰返しを避けるべき強い理由があるということはできない。他方,前記のとおり,新規引用文献に基づく独立特許要件違反を理由として,審判請求時補正が却下されて,補正前クレームに基づいて拒絶査定不服審判請求不成立審決がされた場合には,新規引用文献に基づく独立特許要件違反を理由として,審査段階における3号補正が却下されて,補正前クレームに基づいて拒絶査定がされた場合とは異なり,新規引用文献に基づく拒絶理由を回避するための補正の機会が残されていない点において,出願人にはより過酷であり,この補正の機会の有無により,最終的に特許査定を得られるか否かが左右されるという重大な結果を招く可能性もある。
 なお,平成27年9月改訂の審査基準では,限定的減縮を目的とする3号補正について,補正後クレームに新規性(同法29条1項),進歩性(同条2項),拡大先願(同法29条の2)及び先願(同法39条)に係る拒絶理由が存在する場合で,補正前クレームに係る最後の拒絶理由通知において,上記拒絶理由に対応する拒絶理由を通知していなかったときは,その理由で補正を却下してはならず,補正後クレームに基づいて拒絶理由通知をするものとされている(甲25,乙7)。
 以上の諸点を考慮すると,特許法159条2項により読み替えて準用される同法50条ただし書に当たる場合であっても,特許出願に対する審査・審判手続の具体的経過に照らし,出願人の防御の機会が実質的に保障されていないと認められるようなときには,同法159条2項により準用される同法50条本文に基づき拒絶理由通知をしなければならず,しないことが違法になる場合もあり得るというべきである。
(4) 本件においては,前記(1)のとおり,本件拒絶査定の理由は,本件先願を理由とする拡大先願(特許法29条の2)であるのに対し,審決が本件補正を却下した理由は,刊行物1を理由とする新規性欠如(同法29条1項3号)及び進歩性欠如(同条2項)であって,適用法条も,引用文献も異なるものである。刊行物1は,本件補正を受けた前置報告書において初めて原告に示されたものであるが,刊行物1に基づく拒絶理由通知はされていないことから,原告には,刊行物1に基づく拒絶理由を回避するための補正をする機会はなかった。
 なお,刊行物1の出願人は原告自身ではあるものの,後記2のとおり,刊行物1記載の引用発明1及び引用発明2は,本願補正発明の「特定演出」又は「特別演出」の構成を欠くものと認められ,「特定演出」及び「特別演出」は本願発明の発明特定事項でもあることからすると,原告において,本件補正までに,刊行物1に基づく拒絶理由を回避するための補正をしておくべきであったものということもできず,その他,刊行物1に基づく拒絶理由通知がなくても原告の防御の機会が実質的に保障されていたと認められる特段の事情も見当たらない。
 以上の本願に対する審査・審判手続の具体的経過に照らすと,刊行物1に基づく拒絶理由通知がされていない審決時において,原告の防御の機会が実質的に保障されていないと認められるから,審判合議体は,同法159条2項により準用される同法50条本文に基づき,新拒絶理由に当たる刊行物1に基づく拒絶理由を通知すべきであったということができる。それにもかかわらず,上記拒絶理由通知をすることなく本件補正を却下した審決には,同法159条2項により準用される同法50条本文所定の手続を怠った違法があり,この違法は審決の結論に影響を及ぼすものと認められる。これに反する被告の主張を採用することはできない。
(5) 被告は,原告は,刊行物1に基づく新拒絶理由が記載されている前置報告書(甲22)に対して上申書(甲23)を提出しており,この新拒絶理由に対し意見を述べる機会があったと主張する。
 しかし,原告が上申書により刊行物1に基づく新拒絶理由に対し反論したことは,前記(1)ウのとおりであるが,原告に対し刊行物1に基づく拒絶理由通知はされていないことから,原告には,刊行物1に基づく拒絶理由を回避するための補正をする機会がなかったことに変わりはないのであって,原告の上記反論の存在を加味しても,前記(4)のとおり,刊行物1に基づく拒絶理由通知がされていない審決時において,原告の防御の機会が実質的に保障されていないと認められるとの判断が左右されるものではない。
(6) 以上によると,拒絶理由通知欠缺による手続違背をいう取消事由1は,理由がある。」

2018年9月2日日曜日

公知情報に基づく補正が新規事項追加でないと判断された事例


知財高裁平成30年8月22日判決

平成29年(行ケ)第10216号 審決取消請求事件

 

1.概要

 本判決は、明確性欠如の拒絶を解消するために特許出願人がした補正が新規事項追加であると判断した拒絶審決の取り消しを求めた審決取消訴訟の知財高裁判決である。知財高裁は、補正は新規事項追加には該当しない適法なものであると判断し、審決を取り消した。

 「撹拌羽の左右方向の幅は,全幅58mm,支軸直径6mm,支軸と羽との間隔(隙間)16mm,羽の幅10mmである」という特徴(特定事項a)を追加した補正が新規事項に該当するか否かが争点。この具体的な寸法は明細書には記載されていないが、撹拌羽に関する公知情報を考慮すれば補正は新規事項に該当しないと判断された。

 

2.本件補正の内容(下線部が本件補正による補正部分)

「請求項1

「アルカリ剤を含有する第1剤と酸化剤を含有する第2剤を含んで構成されると

共に,

 前記第1剤と前記第2剤の混合液中に,

 (A)カチオン性界面活性剤0.05~10質量%

 B)アニオン性界面活性剤0.~10質量%

 高級アルコール及びシリコーン類を含む,常温(25℃)で液状である油性成分0.01~1質量%,並びに,

 エタノール,イソプロパノール,プロパノール,ブチルアルコール,ベンジルアルコールから選択される溶剤0.1~20質量%を含有し,

 その各剤の混合液をノンエアゾールフォーマー容器から泡状に吐出して用いる染毛剤であって,前記ノンエアゾールフォーマー容器から吐出した泡をそのまま下記の特定の撹拌条件下で撹拌したとき,撹拌直後の泡(a)の体積に対する撹拌後40分経過時の泡(b)の体積の比率b/aが0.7~1の範囲内であることを特徴とする染毛剤。

 撹拌条件:前記吐出直後の泡150mlを,200ml容で内径がほぼ6cmの円筒形容器(例えばビーカー)に収容する。次いで,日光ケミカルズ(株)製の市販乳化試験器ET-3A型の回転軸に取付けた撹拌羽を,その回転中心が円筒形容器の中心線と一致するように,かつその下端部が円筒形容器の底部との間に僅かなクリアランスを残すように,円筒形容器内部に位置決めする。撹拌羽は,回転中心となる支軸の下端から漢字の「山」の字を構成する形態で対の羽部を延設したものである(撹拌羽の左右方向の幅は,全幅58mm,支軸直径6mm,支軸と羽との間隔(隙間)16mm,羽の幅10mmである。)。撹拌羽の回転半径は円筒形容器の半径より僅かに(数mm程度)小さく,対の羽部の上下方向の幅は円筒形容器に収容した泡の液面に達するサイズである。このように撹拌羽を位置決めしたもとで,25℃の雰囲気中,撹拌羽を150rpmの回転速度で3分間回転させ,泡を撹拌する。」

 

3.争点

 「撹拌羽の左右方向の幅は,全幅58mm,支軸直径6mm,支軸と羽との間隔(隙間)16mm,羽の幅10mmである」という特徴(特定事項a)を追加した補正が新規事項に該当するか否か。

 

 明細書中には、「日光ケミカルズ(株)製の市販乳化試験器ET-3A型の回転軸に取付けた撹拌羽」を用いることは記載されている。しかし、「撹拌羽」の具体的な寸法について何ら記載されていない。

 審決では、本補正は新規事項追加に該当すると判断した。

 

4.裁判所の判断のポイント

 知財高裁は、日光ケミカルズ(株)製の市販乳化試験器ET-3A型についての技術常識を考慮して、特定事項aは新規事項ではなく、補正は適法であると判断した。

日光ケミカルズが販売するET-3Aには,100,200,300,500mlの大きさのビーカーにそれぞれ対応した,4種類の本件撹拌羽根が付属品として必ず添付されており,その形状,寸法は発売開始当初から現在までの間に変更されていない上,これまでに顧客の要望に応じて撹拌羽根の形状,寸法が変更されたということもない。(甲13,18)

 本件撹拌羽根は,4種類いずれもが回転中心となる支軸の下端から漢字の「山」の字を構成する形態で対の羽部を延設したものであり,原告が所持している200mlビーカー用の本件撹拌羽根13本の寸法は以下のとおりである・・・。

・・・・

 特許請求の範囲等の補正は,願書に最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面に記載した事項の範囲内においてしなければならないところ(特許法17条の2第3項),上記の「最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面に記載した事項」とは,当業者によって,明細書,特許請求の範囲又は図面の全ての記載を総合することにより導かれる技術的事項を意味し,当該補正が,このようにして導かれる技術的事項との関係において,新たな技術的事項を導入しないものであるときは,当該補正は「明細書,特許請求の範囲又は図面に記載した事項の範囲内において」するものということができる(知財高裁平成18年(行ケ)第10563号同20年5月30日特別部判決・判例タイムズ1290号224頁参照)。

 これを本件についてみるに,前記で認定したような本願発明において,撹拌羽根の形状,寸法等の撹拌条件は発明特定事項として重要な要素といえるところ,当初明細書等に本件撹拌羽根を用いることは明示されていない。しかし,当初明細書の【0012】には,①撹拌にET-3Aを用いること,②「撹拌羽」は,回転中心となる支軸の下端から漢字の「山」の字を構成する形態で対の羽部を延設した「撹拌羽」であること,③「撹拌羽」の回転半径は,内容量が200mlで内径約6cmのビーカー等の円筒形容器の半径(約3cm)より僅かに小さいことが記載されているところ,前記(1)イの事実によると,当初明細書に記載されている上記「撹拌羽」の形状,寸法は,ET-3Aの付属品である200mlビーカー用の本件撹拌羽根のそれと一致するものである。また,前記(1)イの事実によると,ET-3Aは,昭和60年頃から長年にわたって販売されており,多数の当業者によって使用されてきたと推認される実験用の機械であるところ,販売開始以来,付属品である本件撹拌羽根の形状,寸法に変更が加えられたことは一度もなく,しかも,遅くとも平成17年7月頃には,本件撹拌羽根は,ET-3Aとともに日光ケミカルズのカタログに掲載されていた。さらに,当初明細書の記載に適合するような形状,寸法のET-3A用の撹拌羽根が,ET-3A本体とは別に市販されていたことは証拠上認められない。

 以上の事実を考え併せると,当業者が,当初明細書等に接した場合,そこに記載されている撹拌羽が,ET-3Aに付属品として添付されている200mlビーカー用の本件撹拌羽根を指していると理解することができるものと認められる。そして,特定事項aは,200mlビーカー用の本件撹拌羽根の実寸法を追加するものであるから,特定事項aを本願の請求項1に記載することが,明細書又は図面の全ての記載を総合することにより導かれる技術的事項との関係で新たな技術的事項を導入するものとはいえず,新規事項追加の判断の誤りをいう原告の主張は理由がある。」

2018年7月1日日曜日

膨大な数の選択肢に含まれる下位概念が文献記載の発明といえるか争われた事例

知財高裁特別部平成30年4月13日判決
平成28年(行ケ)第10182号(第1事件)/平成28年(行ケ)第10184号(第2事件)

1.概要
 被告が有する特許に対して、第1事件原告及び第2事件原告が請求した無効審判の審決では、請求は成り立たず、特許権は有効と判断された。
 本事例は、上記無効審判審決に対する審決取消訴訟の知財高裁大合議判決である。
 争点のひとつは、本件発明1が、甲1発明(主引用発明)と甲2発明(副引用発明)とに基づき進歩性を有するか否かである。特に、甲2に記載の一般式で特定された化合物の、膨大な数の選択肢に含まれる下位概念が甲2記載の発明といえるか否かが争われた。
 知財高裁特別部は「特許法29条1項3号の『刊行物に記載された発明』については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,当業者は,特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。」と判示した。

2.本件発明1
 本件発明1(請求項1に係る発明)
「式(I):
(化学式略)
(式中,
R1は低級アルキル;
R2はハロゲンにより置換されたフェニル;
R3は低級アルキル;
R4は水素またはヘミカルシウム塩を形成するカルシウムイオン;
Xはアルキルスルホニル基により置換されたイミノ基;
破線は2重結合の有無を,それぞれ表す。)
で示される化合物またはその閉環ラクトン体である化合物。」

 本件発明1の化合物は、コレステロール生合成の律速酵素である3-ヒドロキシ-3-メチルグルタリルコエンザイムA(HMG-CoA)還元酵素を特異的に阻害し、コレステロールの合成を抑制することにより、高コレステロール血症等の治療に有効である。

3.甲1発明
(化学式略)
M=Na)の化合物

 本件発明1と甲1発明との一致点
 「式(I)
(式中,
R1は低級アルキル;
R2はハロゲンにより置換されたフェニル;
R3は低級アルキル;
破線は2重結合の有無を,それぞれ表す。)
で示される化合物またはその閉環ラクトン体である化合物」

相違点(1-i
Xが,本件発明1では,アルキルスルホニル基により置換されたイミノ基であるのに対し,甲1発明では,メチル基により置換されたイミノ基である点
相違点(1-ii
R4が,本件発明1では,水素又はヘミカルシウム塩を形成するカルシウムイオンであるのに対し,甲1発明では,ナトリウム塩を形成するナトリウムイオンである点

4.裁判所の判断のポイント
「3 取消事由1について
(1) 進歩性の判断について
 特許法29条1項は,「産業上利用することができる発明をした者は,次に掲げる発明を除き,その発明について特許を受けることができる。」と定め,同項3号として,「特許出願前に日本国内又は外国において」「頒布された刊行物に記載された発明」を挙げている。同条2項は,特許出願前に当業者が同条1項各号に定める発明に基づいて容易に発明をすることができたときは,その発明については,特許を受けることができない旨を規定し,いわゆる進歩性を有していない発明は特許を受けることができないことを定めている。
 上記進歩性に係る要件が認められるかどうかは,特許請求の範囲に基づいて特許出願に係る発明(以下「本願発明」という。)を認定した上で,同条1項各号所定の発明と対比し,一致する点及び相違する点を認定し,相違する点が存する場合には,当業者が,出願時(又は優先権主張日。以下「3 取消事由1について」において同じ。)の技術水準に基づいて,当該相違点に対応する本願発明を容易に想到することができたかどうかを判断することとなる。
 このような進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,当業者は,特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。
 したがって,引用発明として主張された発明が「刊行物に記載された発明」であって,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,特定の選択肢に係る技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできず,これを引用発明と認定することはできないと認めるのが相当である。
 この理は,本願発明と主引用発明との間の相違点に対応する他の同条1 項3号所定の「刊行物に記載された発明」(以下「副引用発明」という。)があり,主引用発明に副引用発明を適用することにより本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する場合において,刊行物から副引用発明を認定するときも,同様である。したがって,副引用発明が「刊行物に記載された発明」であって,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできず,これを副引用発明と認定することはできないと認めるのが相当である。
 そして,上記のとおり,主引用発明に副引用発明を適用することにより本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する場合には,①主引用発明又は副引用発明の内容中の示唆,技術分野の関連性,課題や作用・機能の共通性等を総合的に考慮して,主引用発明に副引用発明を適用して本願発明に至る動機付けがあるかどうかを判断するとともに,②適用を阻害する要因の有無,予測できない顕著な効果の有無等を併せ考慮して判断することとなる。特許無効審判の審決に対する取消訴訟においては,上記①については,特許の無効を主張する者(特許拒絶査定不服審判の審決に対する取消訴訟及び特許異議の申立てに係る取消決定に対する取消訴訟においては,特許庁長官)が,上記②については,特許権者(特許拒絶査定不服審判の審決に対する取消訴訟においては,特許出願人)が,それぞれそれらがあることを基礎付ける事実を主張,立証する必要があるものということができる。」
「ア 相違点(1-ⅰ)の判断
(ア) 原告らは,相違点(1-ⅰ)につき,甲1発明に甲2発明を組み合わせること,具体的には,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位のジメチルアミノ基(-N(CH3)2)の二つのメチル基(-CH3)のうちの一方を甲2発明であるアルキルスルホニル基(-SO2R’(R’はアルキル基))に置き換えること,すなわち,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位の「ジメチルアミノ基」を「-N(CH3)(SO2R’)」に置き換えることにより,本件発明1に係る構成を容易に想到することができる旨主張している。
 そこで,甲2発明について検討する。
・・・・
(ウ)a前記(イ)のとおり,甲2の一般式(I)で示される化合物は,甲1の一般式Iで示される化合物と同様,HMG-CoA還元酵素阻害剤を提供しようとするものであり,ピリミジン環を有し,そのピリミジン環の2,4,6位に置換基を有する化合物である点で共通し,甲1発明の化合物は,甲2の一般式(I)で示される化合物に包含される。
 甲2には,甲2の一般式(I)で示される化合物のうちの「殊に好ましい化合物」のピリミジン環の2位の置換基R3の選択肢として「-NR4R5」が記載されるとともに,R4及びR5の選択肢として「メチル基」及び「アルキルスルホニル基」が記載されている。
 しかし,甲2に記載された「殊に好ましい化合物」におけるR3の選択肢は,極めて多数であり,その数が,少なくとも2000万通り以上あることにつき,原告らは特に争っていないところ,R3として,「-NR4R5」であってR4及びR5を「メチル」及び「アルキルスルホニル」とすることは,2000万通り以上の選択肢のうちの一つになる。
 また,甲2には,「殊に好ましい化合物」だけではなく,「殊に極めて好ましい化合物」が記載されているところ,そのR3の選択肢として「-NR4R5」は記載されていない。
 さらに,甲2には,甲2の一般式(I)のXとAが甲1発明と同じ構造を有する化合物の実施例として,実施例8(R3はメチル),実施例15(R3はフェニル)及び実施例23(R3はフェニル)が記載されているところ,R3として「-NR4R5」を選択したものは記載されていない。
 そうすると,甲2にアルキルスルホニル基が記載されているとしても,甲2の記載からは,当業者が,甲2の一般式(I)のR3として「-NR4R5」を積極的あるいは優先的に選択すべき事情を見いだすことはできず,「-NR4R5」を選択した上で,更にR4及びR5として「メチル」及び「アルキルスルホニル」を選択すべき事情を見いだすことは困難である。
 したがって,甲2から,ピリミジン環の2位の基を「-N(CH3)(SO2R’)」
とするという技術的思想を抽出し得ると評価することはできないのであって,甲2
には,相違点(1-ⅰ)に係る構成が記載されているとはいえず,甲1発明に甲2発
明を組み合わせることにより,本件発明の相違点(1-ⅰ)に係る構成とすることは
できない。」


2018年5月27日日曜日

引用発明を改変することの「阻害要因」が認められ進歩性が肯定された事例


知財高裁平成30年4月27日判決
平成29年(行ケ)第10013号 審決取消請求事件

1.概要
 本件は、特許無効審判審決(進歩性肯定、特許有効)に対する審決取消訴訟において、知財高裁が審決は適法であるとして請求を棄却した事例である。
 下記の本件発明2は,生麺体を「蒸煮工程なしに」乾燥する「乾麺」の製造方法に関する。一方、引用発明3には,生麺体を「蒸煮した上で」乾燥する「即席麺」の製造方法に関する。蒸煮工程の有無以外の特徴に関しては、本件発明2と引用発明3とは一致する。しかも、生麺体を蒸煮工程なしに乾燥するという本件発明2の特徴自体は、他の証拠から、周知技術と認定されている。この場合に、引用発明3において、課題解決に必要なものとして記載されている「蒸煮」の工程を行わずに乾燥することで、本件発明2を完成させることの、容易想到性が争われた。
 知財高裁及び審決は、引用発明3において必須の「蒸煮」の工程を行わないように引用発明3を改変することには「阻害要因」があるから、本件発明2は容易には想到できないと結論付けた。

2.本件発明2
「主原料と,前記主原料の総重量に対して0.5重量%よりも大きく6重量%未満の100%油由来の粉末油脂とを含む麺生地から形成した生麺体を90℃~150℃で発泡化および乾燥することを具備し,最終糊化度が30%~75%の糊化度を有する乾麺の製造方法。」

3.一致点相違点
「本件審決が認定した引用発明3,本件発明2と引用発明3との一致点及び相違点は,次のとおりである。
 ア 引用発明3(文中の「/」は,原文の改行箇所を示す。以下同じ。)
 主原料と,粒子径0.15mm以上の粉末粒状の油脂とを少なくとも含む麺原料と,水を混捏して得た混合物から麺線を作成し,該麺線を蒸煮し,次いで,熱風により膨化乾燥する,即席麺の製造方法であって,/前記主原料が小麦粉であり,/前記粉末粒状の油脂の添加量が,小麦粉に対して0.5~5%であり,/温度110℃~145℃,風速5~25m/sの範囲の熱風により乾燥する,/即席麺の製造方法。
 イ 本件発明2と引用発明3との一致点
 主原料と,前記主原料の総重量に対して0.5重量%よりも大きく6重量%未満の100%油由来の粉末油脂とを含む麺生地から形成した生麺体を90℃~150℃で発泡化および乾燥することを具備する,乾燥麺の製造方法。
 ウ 本件発明2と引用発明3との相違点
 本件発明2は,生麺体を(蒸煮工程なしに)乾燥する「乾麺」であるのに対して,引用発明3は,生麺体を蒸煮した上で乾燥する「即席麺」である点(相違点3)。」

4.裁判所の判断
「ア 引用発明3は,高温熱風乾燥の問題点であった「麺線の割れ」を解決すること,及び「生麺のごとき粘弾性」を容易に実現できる即席麺の製造方法を提供することを課題とするものであり(【0018】,【0019】),ひび割れや過発泡を解決するために乾燥工程を短縮し,良好に調理可能な麺の製造を可能とする製造方法を提供する点で,本件発明2と課題を共通にするものである。
 イ 引用例1(甲1),特開昭59-173060号(甲23),特開昭58-81749号(甲24)には,生麺及び蒸し麺のいずれに対しても高温熱風乾燥を施すことが開示されており,生麺及び蒸し麺に高温熱風乾燥を行うとの技術事項は,本件優先日当時,周知技術であったことが認められる。
 しかしながら,引用例3には,主原料と,粒子径0.15mm以上の粉末粒状の油脂とを少なくとも含む麺原料と,水を混捏して得た混合物から麺線を作成し,該麺線を蒸煮し,次いで,熱風により膨化乾燥するとの構成を有する即席麺の製造方法を提供するものであること(【0022】),麺線の蒸煮工程により,麺線内部の粉末粒状油脂が溶けることで麺線内部及び麺線表面に(適度なサイズの)穴が形成され,それに続く熱風による膨化乾燥工程により,麺線内部の水分をスムーズに蒸発させて,麺線を乾燥することができるため,麺線の急激な発泡を防止することが可能となり,その結果,麺線の割れ防止と,湯戻し後の良好な食感の両立(更には,生産性及び経済性の両立)が可能となると推定され,その結果,麺線の太さにかかわらず,従来の高温熱風乾燥の問題点であった「麺線の割れ」を効果的に防止しつつ,湯戻し後の食感を良好にすることができるとの効果が奏されること(【0023】)の記載がある。他方で,引用例3には,蒸煮工程を経ずに,熱風乾燥過程において油脂を溶解させることの記載はない。
 そうすると,引用発明3については,麺線内部及び麺線表面に(適度なサイズの)穴が形成され,既に多孔質化を実現しているのであるから,課題達成のため,生麺及び蒸し麺に高温熱風乾燥を行う周知技術を適用する動機付けはない。
 かえって,引用発明3においては,粉末粒状の油脂が添加された麺線に対し,蒸煮した上で熱風による膨化乾燥を行うとの工程により,所望の効果を実現することができるのであるから,課題達成のためには,熱風乾燥前に既に穴が開いている必要がある。したがって,引用発明3においては,麺線を蒸煮してから熱風により膨化乾燥するとの工程によることに,格別な技術的意義がある。そうすると,蒸煮工程を経ずに熱風による膨化乾燥を行うことは,その課題解決に反することになるから,蒸煮工程を経ないで高温熱風乾燥を行うことには,阻害事由がある。
 したがって,生麺及び蒸し麺に高温熱風乾燥を行うことが周知技術であるからといって,当業者が,蒸煮工程を経ない高温熱風乾燥を適用することを想到することはないというべきである。
 そして,引用例3には,「即席麺」を「乾麺」に置き換えることについて,記載も示唆もなく,当業者がかかる置換えを行うべき理由はない。
 よって,相違点3に係る本件発明2の構成は,当業者が容易に想到し得るものではないから,本件発明2は,引用発明3に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものとすることはできない。」

2018年5月13日日曜日

特許成立後の誤訳の訂正は、特許請求の範囲を拡張・変更するものである場合には認められない


知財高裁平成28年8月29日平成27年(行ケ)第10216号 審決取消請求事件
1.概要
 本事例は、外国語特許出願(原文=ドイツ語)から成立した特許権に対する特許権者による訂正審判請求が成り立たないとする審決に対する審決取消訴訟の高裁判決である。
 請求項1において、本来は「ホスホン酸」と翻訳すべき用語が、誤って翻訳され「燐酸」と記載されていた。
 特許権者は請求項1の「燐酸」を「ホスホン酸」に訂正する訂正審判を請求した。
 特許法126条1項2号には「誤記又は誤訳の訂正」を目的として、特許権者は、願書に添付した明細書、特許請求の範囲又は図面の訂正をすることについて訂正審判を請求することができると規定されている。特許法第126条5項は、「誤記又は誤訳の訂正」を目的とする訂正の際は、外国語特許出願及び外国語書面出願の原文(この場合はドイツ語)を参酌できることを規定する。
 さらに、特許法第126条6項は「第一項の明細書、特許請求の範囲又は図面の訂正は、実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するものであつてはならない。」と規定する。すなわち、原文に基づく「誤訳の訂正」は、特許請求の範囲を実質上拡張・変更しないという条件を満たす限りにおいて認められる。
 本事例では、特許請求の範囲を実質上拡張・変更するか否かの判断の際に、ドイツ語の原文を参酌してよいのか、日本語の特許明細書のみを参酌するのかが争われた。審決及び知財高裁は、ドイツ語の原文は考慮せず、日本語の特許明細書のみを参酌すべきと判断し、本件訂正は特許請求の範囲を変更するものであるから、特許法第126条6項の規定により、適法なものとは言えないと結論付けた。
2.訂正前の請求項1
「-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水溶性の処理溶液で剥離し,
 -これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水溶性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,燐酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水溶性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。」
3.本件訂正後の請求項1(下線部は訂正箇所。)
「-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水性の処理溶液で剥離し,
 -これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,ホスホン酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。」
4.審決の理由(訂正は認められない)
「本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,いずれも「燐酸」ないし「リン酸」の記載個所に対応する原文の記載個所には「Phosphonsäure」と記載されており,その日本語訳は「ホスホン酸」であるから,特許法126条1項2号(以下,条文番号を示す際は,特に断らない限り,特許法を示すものとする。)に規定する「誤訳の訂正」を目的とするものであるが,特許請求の範囲の請求項1における構成の一つである「燐酸」を異なる物質である「ホスホン酸」に訂正することは,上記請求項1の発明特定事項を変更するものであり,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものである。」
5.裁判所の判断(審決維持)
「このように,請求項1の「燐酸」という記載は,本件発明の構成に欠くことができない事項の一つであるところ,その記載自体は極めて明瞭で,明細書の記載等を参酌しなければ理解し得ない性質のものではないし,燐酸塩がアニオン界面活性剤であることは技術常識であると認められるから(乙2ないし4),請求項1全体を見ても「燐酸」という記載にはその位置付けも含めて格別不自然な点は見当たらない。」
「・・・本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるといえるかを検討すると,前記(1)イのとおり,請求項1の「燐酸」という記載は,それ自体明瞭であり,技術的見地を踏まえても,「ホスホン酸」の誤訳であることを窺わせるような不自然な点は見当たらないし,前記(2)アのとおり,本件訂正前の明細書において,「燐酸」又は「リン酸」という記載は11か所にものぼる上,請求項1の第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤としてスルホン酸,カルボン酸と並んで「燐酸」を選択し,その最適な実施形態を確認するための4つの比較実験において,燐酸や燐酸基が使用されたことが一貫して記載されている。
 そうすると,化学式の記載が万国共通であり,その転記の誤りはあり得ても誤訳が生じる可能性はないことを考慮しても,本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるということはできない。
 以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)を訂正することは,本件公報に記載された特許請求の範囲の表示を信頼する当業者その他不特定多数の一般第三者の利益を害することになるものであって,実質上特許請求の範囲を変更するものであり,126条6項により許されない。
(4) 原告の主張について
ア 原告は,前記(2)イによれば,本件公報に接した当業者は,「燐酸(又はリン酸)」と「ホスホン酸」のいずれかが誤りであることを予測することができたとした上で,原文明細書等を参照すれば,ホスホン酸を示す記載はあるが,燐酸を示す記載はないから,当業者は,訂正前の「燐酸(又はリン酸)」が「ホスホン酸」の誤訳であることを認識することができた旨主張する。
 しかしながら,126条6項の要件適合性の判断に当たり,原文明細書等の記載を参酌することはできないから,原告の主張は採用できない。
 すなわち,同項は,第三者に不測の不利益が生じることを防止する観点から,訂正前の特許請求の範囲には含まれないこととされた発明が訂正後の特許請求の範囲に含まれるという事態が生じないことを担保するために,訂正後の特許請求の範囲が訂正前の特許請求の範囲を実質上拡張又は変更したものとなることを禁止したものである。そして,特許権が設定登録により発生すると,願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容が特許公報に掲載されて,第三者に公示され(66条1項,3項,29条の2),第三者が利害関係を有する特許権の禁止権の範囲である特許発明の技術的範囲は,この願書に添付した特許請求の範囲に基づいて定められ,その用語の意義はこの願書に添付した明細書及び図面を考慮して解釈するものとされている(70条1項,2項)。ところで,本件特許のような外国語特許出願においては,出願人は,翻訳文明細書等及び要約の日本語による翻訳文を提出しなければならないとされており(184条の4第1項),翻訳文明細書等及び国際出願日における図面(図面の中の説明を除く。)(以下「国際出願図面」という。)が36条2項の願書に添付した明細書,特許請求の範囲及び図面とみなされる(184条の6第2項)。このように,本件特許のような外国語特許出願においては,特許発明の技術的範囲は,翻訳文明細書等及び国際出願図面を参酌して定められ,原文明細書等は参酌されないから,126条6項の要件適合性の判断に当たっても,翻訳文明細書等及び国際出願図面を基礎に行うべきであり,原文明細書等を参酌することはできないというべきである。原告の主張するように,同項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌することができると解した場合には,誤訳の訂正の許否は原文明細書等を参酌しないと決することができないことになるから,訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。
 これに対して,原告は,原文明細書等は126条1項2号の要件適合性の判断に使用される資料であり,同条1項と同条6項の条文の配置からすると,同条6項は訂正目的に応じて判断基準が異なることを当然の前提としており,原文明細書等を同項の要件適合性の判断に使用することができる旨主張する。しかしながら,同条1項2号の要件適合性と同条6項の要件適合性とは別個の訂正要件についての判断であるから,その要件適合性の判断に当たり参酌できる資料の範囲についてもそれぞれの訂正要件の目的に応じた解釈がされるべきものであり,同条1項2号の要件適合性の判断に当たり参酌できる資料であることは同条6項の要件適合性の判断に当たり参酌できることを基礎付けるものではない。そして,同条6項の要件適合性の判断に当たっては,同項の趣旨に照らし,原文明細書等を参酌することができないことは既に説示したとおりである。」


2018年4月22日日曜日

方法により規定された物の構成要件の範囲が、特定の方法によるものには限定されないと判断された特許権侵害訴訟判決


東京地裁平成30年3月29日判決
平成28年(ワ)第29320号 特許権侵害差止等請求事件
1.概要
 本事例は、原告が、原告の有する特許権に基づいて、被告による被告製品の実施の差止等を求めた侵害訴訟の第一審判決である。東京地裁は原告の請求を認めた。
 本件特許発明は、下記の通り、熱可塑性樹脂発泡シートの片面に熱可塑性樹脂フィルムが積層された発泡積層シートによる容器に関するものである。この容器の構成要件の1つに「突出部」があり、請求項1において、「前記突出部の端縁部の上面が収容凹部の開口縁近傍の突出部の上面に比して下位となるように,突出部の端縁部において前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮されて厚みが薄くなっており」と規定されている(構成要件C)。
 被告製品が、構成要件Cを充足するか否かが争われた。
 被告製品は、①「前記突出部の端縁部の上面が収容凹部の開口縁近傍の突出部の上面に比して下位となる」という構成と,②「突出部の端縁部において前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮されて厚みが薄くなっており」という構成を備えている。しかし、被告製品は、端縁部において上記シートを圧縮して厚みを薄くする工程(上記②)を行い,その結果として端縁部の上面が上記のとおり下位(上記①)となっているわけではない、
 構成要件Cを、端縁部において上記シートを圧縮して厚みを薄くする工程(上記②)を行い,その結果として端縁部の上面が上記のとおり下位となっている(上記①)ことまで限定するものと解釈すれば、被告製品は本件発明の技術的範囲に属さない。
 東京地裁は、「物の態様として「ように」の語が特段の意味を有すると解することはできず,前記ア①及び②の各構成が両立していれば足りると解するのが相当である」と判断し、構成要件Cを広く解釈して、被告製品は本件発明の技術的範囲に属すると結論付けた。

2.本件発明
 本件特許の請求項1に係る発明(本件発明1)は以下のように分説される。下線は説明のために追加した。
「A1 熱可塑性樹脂発泡シートの片面に熱可塑性樹脂フィルムが積層された発泡積層シートが用いられ,
A2 前記熱可塑性樹脂フィルムが内表面側となるように前記発泡積層シートが成形加工されて,
A3 被収容物が収容される収容凹部と,
B 該収容凹部の開口縁から外側に向けて張り出した突出部とが形成された容器本体部を有する容器であって,
前記突出部の端縁部の上面が収容凹部の開口縁近傍の突出部の上面に比して下位となるように,突出部の端縁部において前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮されて厚みが薄くなっており,
D しかも,該突出部の少なくとも端縁部の上面側には,凸形状の高さが0.1~1mmとなり
E 隣り合う凸形状の間隔が0.5~5mmとなるように凹凸形状が形成され,
F 且つ該端縁部の下面側が平坦に形成されていること
G を特徴とする容器。」

 本件特許第5305693号には以下の説明がある。
「前記容器本体部10は、前記突出部14の端縁部15において、前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮された状態となっており、前記波形の突起15aの高さ(図2、図3の“h1”)が0.1~1mmとなり、隣り合う突起15aの間隔が0.5~5mmとなるように形成されていることが怪我防止の観点から好ましい。
 そして、前記端縁部15の上面は、収容凹部の開口縁13近傍の突出部14の上面に比べて下位となるように端縁部15が圧縮された状態となっている。
 すなわち、前記突出部14は、開口縁13近傍から端縁部15にかけて厚みが減少されており、この厚みが減少している領域において丸みを帯びた形状が形成されている。」
 本件特許第5305693号の図1~3:


3.裁判所の判断のポイント
「(3) 争点(1)ウ(構成要件C「端縁部の上面が…下位となるように…圧縮されて厚みが薄くなって」の充足性)について
本件発明1及び2に係る特許請求の範囲の記載は,①「前記突出部の端縁部の上面が収容凹部の開口縁近傍の突出部の上面に比して下位となる」という構成と,②「突出部の端縁部において前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮されて厚みが薄くなっており」という構成であり,かつ,これらの構成が「ように」で結ばれている。「ように」を助動詞「ようだ」の連用形又は名詞「よう」に助詞「に」を組み合わせたものとし,「ように」の後の部分がその前の部分を目的とする行動等を示す意味を有するとするとし・・・,その行動等を②の「圧縮」と解すると,端縁部において上記シートを圧縮して厚みを薄くする工程(上記②)を行い,その結果として端縁部の上面が上記のとおり下位となること(上記①)を示していると解する余地があるが,本件発明1及び2は物の発明であって方法の発明ではないのであるから,直ちにこのような関係にあるとは限られない。この部分を物の態様を示すものとしてみると,上記①及び②の各構成が両立することは必要であるが,更に進んで上記②の圧縮に基づかずに上記①となる形状の容器が本件発明1及び2の技術的範囲に属しない趣旨を含むのか否かは明らかでない。
イ 本件明細書の発明の詳細な説明欄をみると,前記1(1)ア~オの記載に加え,「前記容器本体部10は,前記突出部14の端縁部15において,前記熱可塑性樹脂発泡シートが圧縮された状態となっており,前記波形の突起15aの高さ(図2,図3の“h1”)が0.1~1mmとなり,隣り合う突起15aの間隔が0.5~5mmとなるように形成されていることが怪我防止の観点から好ましい。/そして,前記端縁部15の上面は,収容凹部の開口縁13近傍の突出部14の上面に比べて下位となるように端縁部15が圧縮された状態となっている。/すなわち,前記突出部14は,開口縁13近傍から端縁部15にかけて厚みが減少されており,この厚みが減少している領域において丸みを帯びた形状が形成されている。」「このように,突出部14の上面側に前記熱可塑性樹脂フィルムが配され,下面側には熱可塑性樹脂発泡シートが配され,しかも,端縁部15の上面側15uに凹凸形状が形成され且つ下面側15dが平坦に形成されていることから前記蓋体20を外嵌させる際にこの平坦に形成された端縁部15の下面側15dに強固な係合状態を形成させることができる。/しかも,熱可塑性樹脂フィルムの端縁を上下にジグザグとなるように形成させることにより利用者の怪我などを防止できる。」(発明を実施するための最良の形態。段落【0019】,【0020】。「/」は改行を示す。)との記載がある。
 上記記載によれば,本件発明1及び2は前記1(3)のとおりの技術的意義を持つもので,端縁部の下面が平坦であることとその厚みが薄いことの双方が備わることで,それぞれの効果が生じ,蓋の強固な止着が実現するのであって,端縁部が圧縮されて薄くなっていることと上面の位置との関係に何らかの技術的意義があるものでないし,実施例においても何らの効果も示されていない。そうすると,物の態様として「ように」の語が特段の意味を有すると解することはできず,前記ア①及び②の各構成が両立していれば足りると解するのが相当である。
・・・
エ 証拠(甲5)及び弁論の全趣旨によれば,被告製品(包装用容器)は,端縁部の上面の高さが開口縁近傍の突出部の高さよりも低いことが認められる。
 また,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,①別紙被告製品目録記載・・・の各包装用容器を除く被告製品(包装用容器)について,端縁部の厚さが開口縁近傍の突出部の厚さよりも薄いこと(甲6~9),②被告製品1~7のそれぞれに属する包装用容器について,外寸が異なるほかに相違点がうかがわれないこと(甲5)が認められる。そうすると,被告製品(包装用容器)全部について,上記①のとおり推認するのが相当である。
 したがって,被告製品(包装用容器)は,構成要件Cの「下位となるように…圧縮されて厚みが薄くなって」を充足する。」

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2018年4月14日土曜日

引用文献の再現実験結果が、公知技術の証拠として考慮されなかった事例


 
知財高裁平成30年3月12日判決

平成29年(行ケ)第10041号/平成29年(行ケ)第10042号審決取消請求事件

 
1.概要

 本裁判例は、無効審判審決(請求項1等に係る発明が無効との審決)に対する審決取消訴訟において、知財高裁が審決を取り消した事例である。

 熱間プレス部材に関する本件発明1を特定する特性が、引用文献には記載されていないが、引用文献を再現した再現実験において同じ特性を有する熱間プレス部材が得られた。審決では、再現実験が証拠として考慮されて、前記特性は、引用文献に内在的に開示されていると判断された。一方、知財高裁は、再現実験が優先日後に行われたものであり、前記特性を優先日前に当業者が「認識」できたものではないことから、前記特性は公知技術ではないと判断した。

 引用発明が潜在的に備える構成が公知技術と言えるか否かの判断の際に参考になる事例として紹介する。

 
2.本件発明1(請求項1に記載の発明)

「質量%で,C:0.15~0.5%,Si:0.05~2.0%,Mn:0.5~3%,P:0.1%以下,S:0.05%以下,Al:0.1%以下,N:0.01%以下を含有し,残部がFeおよび不可避的不純物からなる成分組成を有する部材を構成する鋼板の表層に,Ni拡散領域が存在し,前記Ni拡散領域上に,順に,Zn-Ni合金の平衡状態図に存在するγ相に相当する金属間化合物層,およびZnO層を有し,かつ25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであり,優れた塗装密着性と塗装後耐食性を有するとともに,腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制されることを特徴とする熱間プレス部材。」

 
3.引用発明との一致点、相違点

 本件発明1と引用発明との一致点及び相違点

() 一致点

「C:0.2%(判決注:「質量%で,C:0.2%」の誤記と認める。),Si:0.3%,Mn:1.3%,P:0.01%,S:0.002%,Al:0.05%,N:0.004%,Fe及び不可避的不純物を含有する成分組成を有する部材を構成する鋼板の表層にZnO層を有し,塗膜密着性(判決注:「塗装密着性」の誤記と認める。)と塗装後耐食性を有する熱間プレス部材。」である点。

() 相違点

相違点(1)

 部材を構成する鋼板が,引用発明では「Ti:0.02%を含有」するのに対し,本件発明1では,Tiを含有しない点。

相違点(2)

 本件発明1では,「部材を構成する鋼板の表層に,Ni拡散領域が存在し,前記Ni拡散領域上に,順に,Zn-Ni合金の平衡状態図に存在するγ相に相当する金属間化合物層,およびZnO層を有し,かつ25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVである」のに対し,引用発明では,それが明らかではない点。

相違点(3)

 本件発明1では,「優れた塗装密着性と塗装後耐食性を有するとともに,腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制される」のに対し,引用発明では,「塗装密着性と塗装後耐食性を有する」ものの,「腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制される」ことについては明らかではない点。

 
4.無効審判請求人が提出した再現実験(甲2)

 引用例1には,引用発明において,相違点⑵に係る鋼板の表面構造が生成することは明記されていない。

 しかし,前記⑴ウのとおり,Zn-Niめっき鋼板に熱間プレスを施した場合,Ni拡散領域,γ相,ZnO層が,下から上にこの順番で形成され,そのような表面構造を有するめっき部材が本件発明1の自然浸漬電位を有することは,当業者の技術常識に基づいて容易に予測されるものである。そして,以下のとおり,甲2による引用発明の再現実験により,この表面構造が生成することが確認されている。

 甲2は,引用発明に係る亜鉛-12%ニッケル合金電気めっき鋼板につき,その再現実験として,引用例1の【表1】及び【表5】に記載される鋼種Aの化学成分を狙い値として製造された鋼種(鋼種A)に対し,鋼板表面の皮膜状態の構造の調査を行った結果の報告書である。また,同報告書には,鋼種Aに近い成分にCr,Bを加えて製造した鋼種Xについての実験結果も記載されている。甲2によれば,引用例1の再現実験に相当するもの及びそこから鋼板の鋼種,めっき中のNi含有量等の条件を変更した合計16の試料において,鋼板表面の皮膜状態の構造について,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有し,かつ25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることが確認される。また,これらの結果から,下地鋼板の成分組成の若干の相違(鋼種Aと鋼種X程度の相違)が,熱間プレス後の鋼板表面の構造に影響していないことも分かる。

 

5.相違点(2)に関する審決の判断

 甲2号証の調査報告書によれば、表9、表10において、鋼種Aに近い成分にCr:0.21%、B:0.0016%を添加した鋼種X(B3-B10)の場合においても、本件請求項1、4及び5に記載される鋼板の表層についての表面構造を有していることが確認できる。

 したがって、甲1発明において、上記のとおり、Cr:0.1~0.48%、B:0.0005~0.0016%のうちから選ばれた少なくとも一種のCr、Bを添加した場合においても、本件請求項1、4及び5に記載される鋼板の表層についての表面構造を有しているといえる。

 そうすると、該相違点は実質的なものとはいえない。

 
6.相違点(2)に関する裁判所の判断

「引用例1には,引用発明が相違点(2)に係る構成,すなわち,引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており,かつ,25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを示す記載はなく,このことを示唆する記載もない。」

「本件優先日以前に頒布された刊行物である前記()()及び()記載の文献には,Zn-Niめっき鋼板の熱間プレス部材の表面構造に関する記載はない。したがって,これらの記載から,熱間プレス部材である引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており,25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることが技術常識であったと認めることはできない。また,本件特許の優先日時点の当業者において,技術常識に基づき,引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており,かつ,25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを認識することができたものとも認められない。

よって,相違点(2)は実質的な相違点ではないとはいえないし,相違点(2)につき,引用発明及び技術常識に基づいて当業者が容易に想到できたものということもできない。」

「エ 原告の主張について

 原告は,Zn-Niめっき鋼板に熱間プレスを施した場合,Ni拡散領域,γ相,ZnO層が,下から上にこの順番で形成され,そのような表面構造を有するめっき部材が本件発明1の自然浸漬電位を有することは,当業者の技術常識に基づいて容易に予測されるものであり,甲2による引用発明の再現実験により,確かにこの表面構造が生成することが確認されている旨主張する。

 しかし,前記アにおいて認定したことに照らすと,当業者が,本件特許の優先日時点において,引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており,かつ,25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを引用発明が本来有する特性として把握していたと認めることはできない。

 また,甲2は,引用発明に係る亜鉛-12%ニッケル合金電気めっき鋼板につき,引用例1の【表1】及び【表5】に記載される鋼種Aの化学成分を狙い値として製造された鋼種(鋼種A)に対し,鋼板表面の皮膜状態の構造の調査を行った原告従業員作成の実験結果の報告書であるところ,甲2(表9,10)には,16個のうち6個の試料(A1~A4,B1,B11)について,その鋼板表面の皮膜状態の構造が,Ni拡散領域上に,順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており,かつ,25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることが確認されたことが記載されている。

 しかし,甲2の記載は,あくまで,原告が本件各発明を認識した上で本件特許の優先日後に行った実験の結果を示すものであり,本件特許の優先日時点において,当業者が,引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が上記のとおりであることを認識できたことを裏付けるものとはいえない。」