2015年8月22日土曜日

特許請求の範囲での「略(ほぼ)」の明確性が争われた事例

知財高裁平成27年7月28日判決
平成26年(行ケ)第10243号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は、特許無効審判不成立(特許は有効)の審決に対する審決取消訴訟において、審決は適法とされた事例である。
 争点の1つが、「略水平」、「略一周」という特徴を含む特許請求の範囲の記載が明確性要件(特許法36条6項2号)違反に該当するか否かである。
 審決、裁判所ともに不明確とはいえず明確性要件は満足すると判断した。

2.本件発明1
 【A】大便器のリム直下でボウル内面に沿って略水平にボウル部の後方側部より前方に洗浄水を供給する1つのノズルと,
【B】洗浄水をボウル全周に導くボウル内面に沿った棚と,この棚の上方に設けられたリム部と,を備えた大便器装置において,
【C】前記リム部は前記棚から上方に向けて内側に張り出すオーバーハング形状となっており,
 【D1】前記棚は,前記ボウル部の側部では略水平
【D2】且つ前記ボウル部の前方部ではボウル部中央に向かって下方に傾斜し,
【E】前記ノズルから噴出した洗浄水が前記棚に沿って略一周を旋回するように構成されている
【F】ことを特徴とする大便器装置。

3.裁判所の判断のポイント
3.1. 「略水平」について 
 原告は,本件発明1~3の「略水平」との用語が不明確であり,かつ,本件発明1~3が本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではない旨を主張する。
 しかしながら,「略水平」とは,当該技術分野の平均的な技術水準において,棚を 水平を保ったということであり,なるべく水平な状態にしたとか,ほぼ水平であるといった程度の意味ととらえらるから,それ自体として直ちに不明確なものとはいえない。また,本件明細書には,棚をほぼ水平にした実施例(これが厳密な意味で傾斜が0度あるか否かは定かではないが,水平又はほぼ水平(「略水平」)であることは,図面から明らかである。)が記載されているから(【0014】【0017】【0019】【0020】【図2】【図9】),本件発明1~3が,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではないともいえない。
 また,原告は,「略水平」が何度までの傾斜を許容するものであるか不明確である旨を主張する。 しかしながら,本件発明1は,上記1(1)に認定のとおりであり,側部の棚を「略水平」にしたのは,曲率が比較的小さく遠心力が大きくない側部においては,棚を傾斜させるまでもなく,水平又はほぼ水平のままに,洗浄水の一部を自然とボウル部に適宜落下させれば足りるとしたものと理解できるから,「略水平」は,積極的に棚を傾斜させようとするものではないと認められる。そうであれば,当業者は,その技術水準に従い,棚は,なるべく又はほぼ水平であればよいと理解するのであり,それ以上に棚の傾斜の限界を認識しなければならない必要はない。
 原告の上記主張は,採用することができない。

3.2.「略一周」について
 原告は,本件発明1の「略一周」との用語が不明確であり,かつ,本件発明1は,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではない旨を主張する。 
 しかしながら,「略一周」とは,洗浄水が棚に沿って便器内おおむね一周させるといった程度の意味ととらえられるから,それ自体として直ちに不明確なものとはいえない。また,本件明細書には,ノズル21より吐水された洗浄水が,棚14に沿って反時計回りに大便器内を流れながら,ボウル部11に流下する様子が記載されているから(【0015】【0018】【0020】【図1】【図8】),本件発明1が,本件明細書の発明の詳細な説明に記載されたものではないともいえない。
 原告の上記主張は,採用することができない。

医薬用途が引用文献から認識できるか否かが争われた事例

知財高裁平成27年8月20日判決
平成26年(行ケ)第10182号審決取消請求事件

1.概要
 進歩性欠如を理由とする拒絶審決に対する審決取消訴訟において審決が取り消された事例である。
 本願補正発明
 「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで成る,うつ症状の改善のための医薬組成物。」
 である。
 引用例2は特許文献であり、その特許請求の範囲には「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含有するトリグリセリドを含んで成る,脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患の予防又は改善作用を有する医薬組成物」に記載されており、発明の詳細な説明では「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」について,「加齢に伴う」脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患として,「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下,感情障害(たとえば,うつ病),知的障害(たとえば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴呆)」が記載されている。すなわち、形式的には「うつ病の改善」も「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患の改善も引用例2に記載されている。 
 引用例2の実施例3では加齢に伴う脳機能の低下に起因する症状の一つである「記憶・学習能力の低下」にアラキドン酸含有トリグリセリドが有効であることを示す動物試験結果が示されている。
 審決では、本願補正発明と、引用例2に記載の発明(引用発明2)との一致点を「脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで成る,脳機能の低下に起因する症状の改善のための医薬組成物」と認定し、相違点を、「脳機能の低下に起因する症状の改善のための」について,本願補正発明では,「うつ症状の改善のための」と特定しているのに対し,引用発明2ではそのような表現では特定されていない点であると認定した。そのうえで技術常識などから引用例2に記載された事項からうつ病の改善効果は推認できるため本願補正発明は進歩性なしと判断した。
 知財高裁は、引用例2に記載されているのは「脳機能の低下に起因する記憶・学習能力の低下の予防又は改善作用」であると認定し、「うつ病の改善」に関する本願補正発明は容易には想到できないと判断した。
 本事例は文献中のいわゆる一行記載(具体的な裏づけを伴わない効能の記載)の引用発明適格性を考えるうえでも参考になる。

2.裁判所の判断
2.1.引用例2に記載された事項についての認定
 引用例2の実施例3では,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」に相当するTGA40S(全脂肪酸に占めるアラキドン酸の割合が40.84質量%)を3ヶ月間老齢ラットに与えたところ,モリス型水迷路試験における記憶・学習能が,若齢ラットのレベルに向かって有意に改善し(【0050】,【0052】~【0055】,図3,図5),モリス型水迷路試験に供した老齢ラットから摘出した海馬組織のアラキドン酸含有量が多いほど,記憶・学習能が高くなっていたことが確認されている(【0058】,図6)。
 これは,加齢に伴う脳機能の低下に起因する症状の一つである「記憶・学習能力の低下」が,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」により改善されたことを意味するものと認められる。

2.2.「記憶学習能力の低下」と「うつ病」との関連性についての認定
 記憶・学習能力の低下を改善する薬が,うつ病をも改善するとの効果を有するとの技術常識が,本願出願日当時に存在していたと認めることはできない。
 記憶・学習能力に関する評価法であるモリス型水迷路試験から,抑うつ様症状が評価できるとの技術常識があったと認めることもできない。
 引用例2に接した当業者は,引用例2の実施例3の老齢ラットのモリス型水迷路試験の結果に基づいて,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いることにより,「記憶・学習能力の低下」が改善されることは認識できるものの,さらに「うつ病」が改善されることまでは認識することができないというべきであって,まして,「うつ病」を含む様々な症状や疾患が含まれる「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」全体が改善されることまでは認識できないというべきである
 引用例2に記載された発明は,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含有するトリグリセリドを含んで成る,脳機能の低下に起因する記憶・学習能力の低下の予防又は改善作用を有する医薬組成物。」(以下「引用発明2’」という。)と認定すべきである。

2.3.本願補正発明と引用発明2’との対比
 本願補正発明と引用発明2’との一致点及び相違点は,次のとおりである。
ア 一致点
 構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで成る医薬組成物。
イ 相違点
 本願補正発明は,「うつ症状の改善のため」のものであるのに対し,引用発明2’は,「記憶・学習能力の予防又は改善作用を有する」ものである点(以下「相違点α’」という。)。

2.4.相違点α’に係る容易想到性について
 確かに,引用例2の【請求項1】~【請求項16】,【0012】,【0017】には,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いて,「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」の予防又は改善を行うことが記載され,当該症状あるいは疾患として,「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下,感情障害(たとえば,うつ病),知的障害(たとえば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴呆)」等が記載さ
れている。
 しかし,前記(2)ウのとおり,引用例2に接した当業者は,引用例2の実施例3の老齢ラットのモリス型水迷路試験の結果に基づいて,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いることにより,「記憶・学習能力の低下」が改善されることは認識できるものの,さらに「うつ病」が改善されることまでは認識できないというべきである。
 そして,前記(2)()のとおり,うつ病と,記憶障害が中核症状である認知症とは,その病態が異なり,本願出願日当時,記憶・学習能力の低下を改善する薬が,うつ病をも改善するとの効果を有するとの技術常識が存在していたとは認められないことからすれば,引用例2に接した当業者が,引用例2に記載された「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」に含まれる多数の症状・疾患の中から,特に「うつ病」を選択して,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いて,うつ病の症状である「うつ症状」が改善されるかを確認しようとする動機付けがあるということはできない。
 そうすると,引用例2に基づいて,相違点α’に係る本願補正発明の構成に至ることが容易であるということはできず,本件審決のこの点に関する判断には誤りがあるというべきである。