2011年10月10日月曜日

審判段階での補正却下手続が違法と判断された重要判決

知財高裁平成23年10月4日判決

平成22年(行ケ)第10298号 審決取消請求事件

1.概要

 最後の拒絶理由通知応答時や拒絶査定審判請求時にする補正において、請求項発明を限定的に減縮する場合、補正後の請求項発明は独立して特許を受けることができる発明であることが必要である(特許法17条の2第6項で準用する特許法126条6項)。この「独立特許要件」を満足しない補正は却下される(特許法53条)。補正の却下の理由は通知されず、出願人には反論の機会がない。例えば、補正後の発明が、審査段階で全く引用されていない引用文献により新規性がないと審判段階(又は前置審査段階)で判断された場合には、出願人にとって反論の機会がないまま補正が却下される。補正却下後に残る補正前の請求項は既に通知されている理由により拒絶される。

 要するに制度上は、前置補正において限定的補正がされた場合には、審判官は新しく発見された拒絶理由を通知する義務はなく、補正を却下して拒絶査定を維持することが可能である。補正却下の理由が客観的に見て妥当性を欠く理由であっても反論の機会はない。

 本事例では、拒絶査定不服審判において前置審査において新たに発見された引用文献に基づき補正が却下された。原告(出願人)は、この補正却下を含む審判手続きは、特許法159条2項で準用する50条の規定(「審査官は、拒絶をすべき旨の査定をしようとするときは、特許出願人に対し、拒絶の理由を通知し、相当の期間を指定して、意見書を提出する機会を与えなければならない。」という規定)に違反すると主張した。

 従来の裁判例ではこの種の主張は認められていないようである。例えば知財高裁平成19年10月31日判決 平成19年(行ケ)10056号(当ブログ2009年5月8日紹介)において裁判所は「補正の却下について意見書を提出する機会は与えなくていいとされているのであるから,本件補正の却下に当たり,補正の却下の理由を事前に通知する必要がないことは明らかであり,原告の主張は採用できない。・・・原告は,発明に該当しないという拒絶理由は,本件補正により生じた拒絶理由ではなく,本件補正の前から既に存在していたが見落とされていた拒絶理由であるから,本件補正について,特許法17条の2第5項が適用されるべきではない旨主張する。しかし,補正の却下を定めた上記規定において,原告主張を裏付けるといえる規定はなく,原告の見解は独自のものである。」と判断している。

 本事例では「特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念が欠けたものとして適正手続違反があるとせざるを得ない」という理由で審決に違法な瑕疵があると判断した。

2.裁判所の判断のポイント

「1 取消事由1(審判手続の法令違背)について

(1) 原告は,審決が,拒絶査定における引用文献と異なる引用文献を用いて補正発明の進歩性を否定したものであり,原告には,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由について意見書を提出する機会が与えられなかったから,審判手続には特許法159条2項で準用する同法50条の規定に違反する瑕疵があり,当該瑕疵は審決の結論に影響を及ぼす違法なものであると主張する。

(2) まず,審決に至るまでに審査官及び審判官が示した文献に焦点を当てて本件の経過をみるに,審査での拒絶査定(甲11)で示されたのは,刊行物1(特開昭59-171588号公報)及び特開昭53-25072号公報(甲3)の公知文献のほか,特表平9-500709号公報及び実願平4-27639号(実開平5-87352号)のマイクロフィルムであったのに対し,原告が審判請求とともにした本件補正後に審判で示された審尋書(甲15)で,刊行物1のほか,新たに刊行物2(実願昭61-179182号(実開昭63-85495号)のマイクロフィルム)と実願昭63-111582号(実開平2-32822号)のマイクロフィルムを提示して拒絶すべきものとする前置報告書の内容が原告に示され,改めて拒絶理由が通知されない限り特許法17条の2所定の補正はできないが,審尋に回答するよう求め,原告はこれに対して,本件補正は独立特許要件を充足すること,また,補正案を示して更に請求項1を補正する機会を与えてほしいことなどを内容とする回答書(甲16)を提出したが,そのまま審決に至ったというにある。

(3) 本件出願に関して争点となっている法条については,平成5年法律第26号により改正された特許法17条の2及び50条が適用されるところ,本件補正は,平成6年法17条の2第1項3号に該当する拒絶査定不服審判請求日から30日以内に行う補正であるから,同条の2第3項ないし5項に規定される要件を満たす必要があり,特許請求の範囲の減縮を目的とする補正について同条の2第5項により準用される同法126条4項は,「発明が特許出願の際独立して特許を受けることができるものでなければならない」と規定するから,本件補正は,いわゆる「独立特許要件」を充足する必要がある。

 一方,同法53条は,同法17条の2第1項2号に係る補正が,同条3項から第5項までの規定に違反している場合には,決定をもってその補正を却下すべきものとし,同条は,同法159条1項で読み替えて拒絶査定不服審判に準用される。また,同法50条ただし書は,拒絶査定をする場合であっても,補正の却下をするときは,拒絶理由を通知する必要はないものとし,同条ただし書は,同法159条2項で読み替えて拒絶査定不服審判に準用される。したがって,拒絶査定不服審判請求に際して行われた補正については,いわゆる新規事項の追加に該当する場合や補正の目的に反する場合だけでなく,新規性,進歩性等の独立特許要件を欠く場合であっても,これを却下すべきこととされ,その場合,拒絶理由を通知することは必要とされていない。

 ところで,平成6年法50条本文は,拒絶査定をしようとする場合は,出願人に対し拒絶の理由を通知し,相当の期間を指定して意見書を提出する機会を与えなければならないと規定し,同法17条の2第1項1号に基づき,出願人には指定された期間内に補正をする機会が与えられ,これらの規定は,拒絶査定不服審判において査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合にも準用される。審査段階と異なり,審判手続では拒絶理由通知がない限り補正の機会がなく(もとより審決取消訴訟においては補正をする余地はない。),拒絶査定を受けたときとは異なり拒絶査定不服審判請求を不成立とする審決(拒絶審決)を受けたときにはもはや再補正の機会はないので,この点において出願人である審判請求人にとって過酷である。特許法の前記規定によれば,補正が独立特許要件を欠く場合にも,拒絶理由通知をしなくとも審決に際し補正を却下することができるのであるが,出願人である審判請求人にとって上記過酷な結果が生じることにかんがみれば,特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念を欠くものとして,審判手続を含む特許出願審査手続における適正手続違反があったものとすべき場合もあり得るというべきである。

(4) 本件においてされた補正却下に関する事情として, 本件補正の内容となる構成が補正前の構成に比して大きく限定され,すなわち,補正前発明が,駆動力入力端と2つの駆動力出力端とを含み双方向駆動を生じさせるための洗濯機において,駆動力伝達のための機構が,「駆動力入力を2つの駆動力出力に変換可能な歯車箱」と一般的に記載されていたのを,本件補正は,図面等に示された実施例の内容に即して,歯車箱内の歯車を二対の歯車部(15,28)を中心に具体的構成を特定するものであって,補正発明の構成に係るものであるが,この新たな限定につき現に新たな公知文献を加えてその容易想到性を判断する必要のあるものであったこと,② 審尋で提示された公知文献はそれまでの拒絶理由通知では提示されていなかったものであること,③ 審尋の結果,原告は具体的に再補正案を示して改めて拒絶理由を通知してほしい旨の意見書を提出したこと,④ 後記2で判断するとおり,新たに提示された刊行物2の記載事項を適用することは是認できないこと,などの事実関係がある。本件のこのような事情にかんがみると,拒絶査定不服審判を請求するとともにした特許請求の範囲の減縮を内容とする本件補正につき,拒絶理由を通知することなく,審決で,従前引用された文献や周知技術とは異なる刊行物2を審尋書で示しただけのままで進歩性欠如の理由として本件補正を却下したのについては,特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念が欠けたものとして適正手続違反があるとせざるを得ないものである。本件においては,審判においても,減縮的に補正された歯車の具体的構成に対し,その構成を示す新たな公知技術に基づいて進歩性を否定するについては,この新たな公知技術を根拠に含めて提示する拒絶理由を通知して更なる補正及び意見書の提出の機会を与えるべきであったというべく,この手続を経ることなく行われた審決には瑕疵があり,当該手続上の瑕疵は審決の結論に影響を及ぼすべき違法なものであるから,原告主張の取消事由1には理由がある。

(5) 被告は,平成5年法改正が,出願当初から多項制を活用して補正をあまり行わない出願と過度の補正を行う出願との不公平を是正し,審査・審判の迅速性を確保するために行われたものであり,最後の拒絶理由通知を受けた後になされた補正や拒絶査定不服審判を請求する際の補正が不適法である場合,直ちに当該補正を却下するという制度設計がなされたものであると主張する。

 確かに,平成5年法改正は,被告主張のように,補正の目的を制限すること等により審査・審判の迅速性を確保することをその趣旨としたものということができる。

 しかし,平成5年法改正がこのような趣旨であり,補正が繰り返されるのは好ましくないとしても,それまでに示されなかった拒絶理由の枠組みに対する適切な手続保障が失われてはならず,過度の補正が行われた出願については別途の考慮を要するとして,本件の前記事実関係の下に,新たな公知技術が拒絶理由で示されないまま審決で補正発明につき独立特許要件欠如として容易想到の結論に至ることが許されないことに変わりはない。

 被告は,審尋において,前置報告書の内容を示して意見があれば回答をするよう求め,具体的に刊行物2を示してその内容に基づいて補正発明が進歩性を欠く旨を述べ,これに対し原告は,平成22年4月9日付け回答書を提出して,刊行物2及びその他の引用文献について詳細に反論し,補正発明が進歩性を有する旨を主張しているのであるから,この点について意見を述べる機会が与えられなかったとはいえないと主張する。

 しかし,上記の手続は,審尋において刊行物2を示しただけであり,拒絶理由を通知して意見書の提出を求めたものではないから,補正案を示して補正の機会を与えるよう要望し,新たに示された刊行物2に対応した補正を予定していた原告の手続保障に欠けるものであって,前示のような適正な審判の実現と発明の保護を図るという観点を欠くものである。」

2011年10月2日日曜日

発明を実施するとき発生する問題点を解決するためのノウハウの開示の必要性について

知財高裁平成23年9月15日判決

平成22年(行ケ)第10348号 審決取消請求事件

1.概要

 請求項発明を実用的に実施するために必要なノウハウが明細書中に明確に記載されていない場合に、実施可能要件違反に該当するのかが争われた無効審判の審決取消訴訟である。

 審決と裁判所はともに実施可能要件は満足されると判断した。

2.請求項に記載の発明

【請求項1】飛灰に水と,ピペラジン-N-カルボジチオ酸もしくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸のいずれか一方もしくはこれらの混合物又はこれらの塩を添加し,混練することを特徴とする飛灰中の重金属の固定化方法

3.裁判所の判断のポイント

(1) 実施可能要件について

 ・・・方法の発明における発明の実施とは,その方法の使用をすることをいい(特許法2条3項2号),物の発明における発明の実施とは,その物を生産,使用等をすることをいうから(同項1号),方法の発明については,明細書にその方法を使用できるような記載が,物の発明については,その物を製造する方法についての具体的な記載が,それぞれ必要があるが,そのような記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識に基づき当業者がその方法を使用し,又はその物を製造することができるのであれば,上記の実施可能要件を満たすということができる。

 これを本件発明についてみると,本件発明1ないし5は,方法の発明であり,本件発明6ないし10は,物の発明であるが,本件発明は,いずれもその特許請求の範囲(前記第2の2)に記載のとおり,本件各化合物(ピペラジン-N-カルボジチオ酸(本件化合物1)若しくはピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸(本件化合物2)のいずれか一方若しくはこれらの混合物又はこれらの塩)が飛灰中の重金属を固定化できるということをその技術思想としている。

 したがって,本件発明が実施可能であるというためには,①本件明細書の発明の詳細な説明に本件発明を構成する本件各化合物を製造する方法についての具体的な記載があるか,あるいはそのような記載がなくても,本件明細書の記載及び本件出願日当時の技術常識に基づき当業者が本件各化合物を製造することができる必要があるほか,②本件明細書の発明の詳細な説明に本件各化合物が飛灰中の重金属の固定化剤として使用できること及びその方法を使用できるような記載があるか,あるいはそのような記載がなくても,本件明細書の記載及び本件出願日当時の技術常識に基づき当業者が本件各化合物を飛灰中の重金属の固定化剤として使用できる必要があるというべきである。

(2) 本件明細書の記載について

 以上の観点から本件明細書の発明の詳細な説明を見ると,そこには,本件発明についておおむね次の記載がある。

ア 本件発明は,都市ゴミや産業廃棄物等の焼却プラントから排出される飛灰を処理するに際し,飛灰中に含有される鉛,水銀,クロム,カドミウム,亜鉛及び銅等の有害な重金属をより簡便に固定化し不溶出化することを可能にする方法に関するものである(【0001】)。

イ 前記飛灰は,電気集塵機(EP)やバグフィルター(BF)で捕集されたのち埋め立てられ又は海洋投棄されているが,有害な重金属の溶出には環境汚染の可能性があるため,例えば引用発明4の薬剤添加法などの処理を施してから廃棄することが義務付けられている(【0002】)。しかし,飛灰処理に関しては,特に高アルカリ性飛灰の重金属溶出量が多くなることなどが知られているため,従来の薬剤では,その使用量を大幅に増加するか,塩化第二鉄等のpH調整剤等を併用せざるを得ず,処理薬剤費が増大し,また処理方法が複雑化する等の問題があった。さらに,引用発明4等で使用されるジチオカルバミン酸は,原料とするアミンによっては,pH調整剤との混練又は熱により分解するために,混練処理手順及び方法に十二分に配慮する必要があった(【0003】)。

ウ 本件発明の目的は,飛灰中に含まれる重金属を安定性の高いキレート剤を用いることにより簡便に固定化できる方法を提供することであり(【0004】),本件発明の発明者らは,ピペラジンカルボジチオ酸又はその塩(本件各化合物)が,重金属に対するキレート能力が高く,高アルカリ性飛灰においても少量の添加量で重金属を固定化でき,かつ,熱的に安定であることを見いだした(【0005】)。

 すなわち,本件発明は,飛灰に水とピペラジンカルボジチオ酸又はその塩(本件各化合物)を添加し,混練することを特徴とする飛灰中の重金属の固定化方法である(【0006】)。

エ 次に,実施例によりさらに詳細に本件発明を説明する。ただし,本件発明は,下記実施例によってなんら制限を受けるものではない(【0015】)。

() 合成例1(ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム)の合成

 ガラス製容器中に窒素雰囲気下,ピペラジン172重量部,NaOH167重量部,水1512重量部を入れ,この混合溶液中に攪拌しながら45℃で二硫化炭素292部を4時間かけて滴下した。滴下終了後,同温度にて約2時間熟成を行った。

 反応液に窒素を吹き込み未反応の二硫化炭素を留去したところ,黄色透明の液体を得た(化合物No.1。【0016】)。

() 合成例2(ピペラジン-N,N′-ビスカルボジチオ酸カリウム)の合成

 ガラス製容器中に窒素雰囲気下,ピペラジン112重量部,KOH48.5%水溶液316重量部,水395重量部を入れ,この混合溶液中に攪拌しながら40℃で二硫化炭素316部を4時間かけて滴下した。滴下終了後,同温度にて約2時間熟成を行った。反応液に窒素を吹き込み未反応の二硫化炭素を留去したところ,黄色透明の液体を得た(化合物No.2。【0018】)。

() 安定性試験

 化合物No.1及びNo.2並びにエチレンジアミン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.3)及びジエチレントリアミン-N,N′,N′′-トリスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.4)の水溶液を65℃に加温し,あるいはpH調整剤として塩化第二鉄(38%水溶液)を20重量%添加して硫化水素ガスの発生について調べたところ,化合物No.1及びNo.2ではいずれも硫化水素が発生しなかったが,化合物No.3及びNo.4ではいずれも硫化水素が発生した(【0021】【0022】)。

() 重金属固定化能試験

鉛等を含むBF灰100重量部に水30重量部を加え,化合物No.1を0.5部(実施例1。【0023】)若しくは0.74部(実施例2。【0026】)又は化合物No.2を0.4部(実施例3。【0027】)若しくは0.8部(実施例4。【0028】)を添加・混練し,環境庁告示第13号試験に従い溶出試験を行ったところ,鉛の溶出結果は,それぞれ0.07ppm(実施例1),0.05ppm 以下(実施例2),0.06ppm(実施例3)及び0.01ppm 以下(実施例4)であった(【0024】)。

 他方,化合物No.1を使用しない以外は実施例1と同様にした場合(比較例1。【0029】),化合物No.1の代わりにエチレンジアミン-N,N′-ビスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.3)を0.8部(比較例2)及び1.2部(比較例3)となるように添加する以外は実施例1と同様にした場合(【0030】)並びに化合物No.1の代わりにジエチレントリアミン-N,N′,N′′-トリスカルボジチオ酸ナトリウム(化合物No.4)を0.76部(比較例4)及び1.15部(比較例5)となるように添加する以外は実施例1と同様にした場合(【0031】)の鉛の溶出結果は,それぞれ29.0ppm(比較例1),25.5ppm(比較例2),24.9ppm(比較例3),5.91ppm(比較例4)及び1.35ppm(比較例5)であった(【0024】)。

オ 本件発明の方法によれば,ピペラジンカルボジチオ酸又はその塩(本件各化合物)は,重金属固定化能が高く,かつ,熱的にも安定であることから,重金属溶出量の多い高アルカリ性飛灰においても,少量の添加で効果を発揮し経済的であるとともに,他の助剤の使用に際して安全かつ簡便な処理方法にて実施できるので工業的にも非常に有用である(【0032】)。

(3) 本件発明の実施可能性について

ア 前記(1)①についてみると,以上によれば,本件明細書の発明の詳細な説明には本件各化合物の製造方法についての一般的な記載はなく,実施例中に,合成例1(化合物No.1)及び2(化合物No.2)として,本件化合物2の塩の製造例が記載されているにとどまる。

 他方,引用例3(昭和55年3月刊行)には,ピペラジンジチオカルバメート及びピペラジンビスジチオカルバメートのナトリウム塩が公知の方法で合成された旨の記載があり,また,甲19(昭和54年刊行)にもピペラジンジチオカルバミン酸ナトリウムを合成した旨の記載があることからすると,本件各化合物は,本件出願日当時において公知の化合物であり,その製造方法も,周知の事項であったものと認められる(原告も,この点を争っていない。)。

 したがって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載の有無にかかわらず,当業者は,本件出願日当時において,本件各化合物を製造することができたものと認められる。

イ 次に,前記(1)②についてみると,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件各化合物が,重金属に対するキレート能力が高く,高アルカリ性飛灰においても少量の添加量で重金属を固定化できる知見の裏付けとして,前記(2)()に認定のとおり,BF灰(バグフィルターで捕集された灰)に,水と本件化合物2の塩を0.4ないし0.8重量%加え,混練したものから重金属の溶出が抑制されていることが記載されている(重金属固定化能試験)。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件各化合物が飛灰中の重金属の固定化剤として使用できること及びその方法を使用できるような記載があるということができる。

ウ 以上によれば,当業者は,本件明細書の発明の詳細な説明の記載及び本件出願日当時の技術常識から本件各化合物を入手して,飛灰中の重金属の固定化に使用できるということができるので,本件明細書の発明の詳細な説明は,当業者がその実施をすることができる程度に十分に記載されているものということができる。

 よって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,法36条4項に違反せず,これと結論を同じくする本件審決に誤りはない。

(4) 原告の主張について

ア 以上に対して,原告は,副生成物の生成を抑制しないと硫化水素が発生して本件発明が実施できないから,一般的な合成方法とは異なる異常に低い攪拌速度を採用して副生成物の生成を抑制する旨を記載していない本件明細書によっては,本件発明が実施不可能である旨を主張する。

 しかしながら,本件発明の特許請求の範囲の記載は,本件各化合物が飛灰中の重金属の固定化剤として使用できる旨を方法又は物の発明として特定しており,本件発明は,本件各化合物の製造に当たって硫化水素を発生させる副生成物の生成を抑制することをその技術的範囲とするものではない。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明に副生成物の生成が抑制された本件各化合物の製造方法が記載されていないからといって,特許請求の範囲に記載された本件発明が実施できなくなるというものではなく,法36条4項に違反するということはできない。

 なお,本件明細書の発明の詳細な説明によれば,前記(2)()に認定のとおり,本件発明は,飛灰中の重金属を固定化する際にpH調整剤と混練し又は加熱を行うという条件下でも分解せずに安定である,すなわち有害な硫化水素を発生させないことも,その技術的課題としているといえる(安定性試験)。しかし,上記技術的課題を解決するという作用効果は,他の先行発明との関係で本件発明の容易想到性を検討するに当たり考慮され得る要素であるにとどまるというべきである。

 よって,原告の上記主張は,それ自体失当であり,採用できない。

イ また,原告は,前記アの主張を前提として,被告による甲12実験が本件明細書とは実験スケールを変更しているばかりか,本件明細書に記載がない異常に低い攪拌速度を採用しており,また,二硫化炭素の滴下には名人芸的なコントロールを要するところ,本件明細書にはこの点について記載がないから,本件明細書によっては本件発明が実施不可能である旨を主張する。

 原告の上記主張は,前記のとおり,その前提において失当ではあるが,事案に鑑み念のために検討すると,確かに,本件明細書には,合成例1及び2について,いずれも攪拌及び二硫化炭素の滴下の時間が4時間と記載されているが(前記(2)()及び()),攪拌速度及び二硫化炭素の滴下方法については記載がない。

 しかしながら,例えば合成例2と同様の方法でジチオカルバミン酸誘導体を製造する方法について記載した他の複数の文献(引用例4,甲18,乙4)は,いずれも攪拌速度及び二硫化炭素の滴下の詳細について記載がないから,当業者であれば,

 これらの条件の詳細が記載されていなくとも本件各化合物を製造することができるものと認められる。

・・・

 よって,原告の上記主張も採用できない。」