2010年10月23日土曜日

生物材料が「刊行物に記載されている」といえるかどうかが争われた事例

知財高裁平成22年9月30日判決

平成22年(行ケ)第10029号審決取消請求事件

1.概要

 本願発明は「L612として同定され,アメリカン・タイプ・カルチャー・コレクション(American Type Culture Collection)にATCC受入番号CRL10724として寄託されているヒトのBリンパ芽腫細胞系」である。

 本願発明の発明者が著者として含まれる学術文献(引用例1及び2)には「L612を分泌する・・・細胞系」という記載がある。

 ただし引用例には、本願発明にいうATCC受入番号CRL10724で寄託された細胞である旨の記載はない。第三者の求めに応じて著者が分譲することを明示する記載もない。引用例記載の細胞系と、本願発明の細胞系とが実際には同じ細胞系をさしていることも争いはない。

 審決では、L612細胞系は「刊行物に記載された発明」であると判断し、本願発明の新規性を否定した。

 裁判所は、文献の著者が分譲する意思を有していなかったことに着目し、「刊行物に記載された発明」とはいえず、審決は妥当でないと判断した。

2.裁判所の判断のポイント

「特許法29条1項3号(新規性)適用の有無

審決は,本願優先日前に頒布された引用例1及び2には「L612を分泌する・・・細胞系」なる記載があり,それ以上に本願発明にいうATCC受入番号CRL10724で寄託された細胞である旨の記載はないが,引用例1及び2にいう上記記載は本願発明を記載したことになるから特許法29条1項3号(新規性の欠如)に該当すると判断し,これに対し原告は,上記該当性を争うので,以下,検討する。

(1) 特許は,発明を社会に公開することの代償として,一定期間に限って特許権という独占権を付与するものであるから,特許を受けるには,当該発明が出願前又は優先日前に広い意味で公に知られていないこと(「新規性」があること)が必要であり,特許法29条1項は,これを表すため,「公然知られた発明」(1号)・「公然実施された発明」(2号)・「頒布された刊行物に記載された発明」等(3号)につき,それぞれ新規性がないことを定めているところ,本件は,上記のうち3号の「頒布された刊行物に記載された発明」に該当するかどうかという事案である。

 ところで,上記にいう「刊行物に記載された発明」とは,刊行物に記載されている事項又は記載されているに等しい事項から当業者(その発明が属する技術の分野における通常の知識を有する者)が把握できる発明をいう,と解するのを相当とするところ,本件においては,本願発明が「L612として同定され,アメリカン・タイプ・カルチャー・コレクション(American Type Culture Collection)にATCC受入番号CRL10724として寄託されているヒトのBリンパ芽腫細胞系」であるのに,本願優先日前に刊行された引用例1及び2には「L612を分泌する細胞系」と記載されているだけで,ATCC受入番号の記載がないことから,引用例1及び2における上記記載だけで「刊行物に記載されているに等しい事項」といえるかということを検討する必要がある。

(2) これにつき,審決は,引用例1及び2に記載されたL612細胞系は,第三者から分譲を請求された場合には分譲され得る状態にあったと推定できると認定判断したのに対し,原告はA 博士の宣誓供述書の提出等により,上記の認定判断を争っている。

「・・・引用例1及び2には,ATCCの寄託番号などL612細胞系の内容を特定するに足る記載はなく,また,そもそも細胞系を言葉や化学式などで完全に表現することはできず,引用例1及び2にもそのような記載はないものと認められる。したがって,引用例1及び2に記載された事項のみによっては,引用例1及び2にL612細胞系の発明が記載されているということができない。

 しかし,L612細胞系が,本願優先日前に,引用例1及び2の著者から分譲され得る状態にあれば,L612細胞系の内容が裏付けられ,引用例1及び2にL612細胞系の発明が記載されているということができるものと認められ,この点につき当事者間に争いがない。そうすると,本訴における争点は,L612細胞系が,本願優先日前に引用例1及び2の著者から分譲され得る状態にあったか否かに集約されるものである。

「上記の投稿規定やホームページの内容からみて,原告,被告いずれの翻訳によっても,引用例1及び2が掲載された学術雑誌に投稿した著者は,投稿した論文に記載された生物学的材料について,第三者から分譲の要求があったときは,その要求に応ずるよう求められていたといえる。

 ただ,・・・これらの投稿規定が,上記学術雑誌に投稿した著者に,第三者に対して生物学的材料を提供することを強制しているものとまでは認められない。

 そうすると,引用例1及び2が掲載された学術雑誌に投稿した著者が上記の投稿規定やホームページの内容に従うか否かは,基本的に著者の意思に依存するものというべきである。そして,本件についてみると,引用例1及び2の著者が,上記投稿規定やホームページの内容に反し,L612細胞系について,本願優先日前に第三者から分譲の要求があっても同要求に応じない意思を有していたものであれば,本願優先日前に第三者が引用例1及び2の著者からL612細胞系を入手し得なかったことになり,逆に応ずる意思を有していたのであれば,本願優先日前に第三者が引用例1及び2の著者からL612細胞系を入手し得たことになる。

「引用例1及び2の著者の一人であるA 博士の各宣誓供述書には,以下の記載がある。

(a) 甲15(A 博士の平成21年6月3日付け宣誓供述書)には,以下の記載がある。

「私,A は,以下のとおり供述する。

・・・

4.私は,1993年2月26日前は,仮に当該4人のいずれかからL612細胞系を第三者に頒布することについて許可を求められたとしても,その許可を求められたとしても,その許可を与える意図はなかったし,現実にそのような許可を求められた事実はなく,許可を与えた事実もなかった。

「以上のとおり,本願優先日前,A 博士(及び共同研究者)は,L612細胞系につき,第三者から分譲を要求されても,同要求に応じる意思はなかったものと認められ,その結果,L612細胞系は,第三者にとって入手可能ではなかったことになり,「引用例1,2に記載されるL612細胞系は,第三者から分譲を請求された場合には,分譲され得る状態にあったものと推定することができる」とした審決の認定判断は誤りであって,同誤りが審決の結論に影響を及ぼすおそれがあることは明らかである。