2009年11月15日日曜日

特許法第29条の2における「先願明細書に記載された発明」

知財高裁平成21年11月11日判決

平成20年(行ケ)第10483号審決取消請求事件

主文1:特許庁が不服2007-11283号事件について平成20年10月15日にした審決を取り消す。

1.概要

 原告の特許出願の特許請求の範囲に記載されている発明(本願発明)は、所定の一般式(I)で表されるヘキサアミン化合物である。本化合物は、ベンゼン環を少なくとも17個有する大きな分子の化合物である。本化合物は、有機電界発光素子や電子写真感光体などに用いられる電荷輸送材料として有用である。本化合物は、4個の-N(Ph)(Ph-CH)基(すなわち、フェニル基とメチルフェニル基とで置換されたアミノ基)を有する。

 特許法第29条の2の引例である先願明細書には、同様の用途に用いられることを意図した化合物が記載されている。先願明細書の【化5】で示された一般式は本願発明の上記化合物を抽象的には包含する(一般式中の「アミノ基」という記載が、抽象的には、-N(Ph)(Ph-CH)基を包含する)。しかしながら、先願明細書には、本願発明の化合物は具体的には記載されていない。

 先願明細書には最も近い具体的な化合物として、化合物No.II-10が記載されている(No.II-10の記載の有無も争点の一つであったが、裁判所は記載されていると認定した)。化合物No.II-10では、4個の-N(Ph)(Ph-CH)基ではなく、4個の-N(Ph)基を有する点で、本願発明の化合物と相違する。すなわち一方のフェニル基上にメチル基が存在していないという点のみが本発明の化合物と異なる。

 審決では、

「化合物に関する発明について,特許法第29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」というためには,先願明細書等に例示されている化合物のみが「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」であると限定的に解釈するのは適当ではなく,少なくとも,先願明細書等に例示されている化合物の置換基の一部が,当該発明の機能に及ぼす影響が少ないようにごく僅かだけ改変された化合物についても,記載されているに等しいとして,特許法第29条の2にいう「願書に最初に添付した明細書・・・に記載された発明」であると認めるのが相当である。」

という理由により、先願明細書に記載の化合物No.II-10における4個の-N(Ph)基が-N(Ph)(Ph-CH)基に置換された化合物も先願明細書に記載された発明(審決及び判決では「先願発明」と呼ばれる)であると認定し、本願発明は特許法第29条の2の規定により特許を受けられないと結論付けた。

 上記の点に関して裁判所は、先願明細書に記載された化合物であるというためには、具体的な置換基として例示されている必要があり、審決における「先願発明」の認定は誤りがあると判断した。

2.裁判所の判断のポイント

(2) いわゆる化学物質の発明は,新規で,有用,すなわち産業上利用できる化学物質を提供することにその本質が存するから,その成立性が肯定されるためには,化学物質そのものが確認され,製造できるだけでは足りず,その有用性が明細書に開示されていることを必要とする。

 そして,化学物質の発明の成立のために必要な有用性があるというためには,用途発明で必要とされるような用途についての厳密な有用性が証明されることまでは必要としないが,一般に化学物質の発明の有用性をその化学構造だけから予測することは困難であり,試験してみなければ判明しないことは当業者の広く認識しているところである。したがって,化学物質の発明の有用性を知るには,実際に試験を行い,その試験結果から,当業者にその有用性が認識できることを必要とする。

 なお,被告は,有機EL素子用化合物のような,単に化合物の物理化学的性質を利用する技術分野の化合物については,医薬,農薬,バイオ関連技術のような特殊な技術分野の場合と異なり,当業者が容易に作ることができる上,その有用性も推認できる可能性が高い旨主張する。しかし,このような「化学物質の用途,分野によって,その製造可能性や有用性が推認できる程度が異なる」旨の主張を前提としてもなお,本件で化学物質発明が問題となっている事実に変わりはなく,当業者がその製造可能性及び(有機EL素子用化合物としての)有用性を認識できる程度の開示が必要であることに変わりはない。

(4) ・・・「先願発明」の化合物については,先願明細書等の【化5】,【化16】で示された一般式に,抽象的には包含されるとしても,先願明細書等において,その構造につき具体的に記載されてはいない。

 そして,上記【化5】【化16】に関しては,複数の化合物の組み合わせを表現したものにすぎず,ある化合物が明細書等において開示されているというためには,たとえ表の中であっても,具体的な構造(「先願発明」の化合物に関しては,メチル基を置換基として有する具体的構造)が特定して開示される必要があるというべきである。

 なお,被告は,「同族列に所属する一連の化合物は,化学的性質が極めてよく似ていて,すべての化合物に共通の官能基に基づく同一の反応を示すから,化合物No.II-10 と『先願発明』の化合物も実質的に同視できる」旨主張するとともに,特許公報(乙4,5)の記載により,上記主張を補強している。

 しかし,前記1(3) ウのとおり,化学大辞典(乙3)において,同族列として脂肪族飽和炭化水素のメタン,エタンや,芳香族炭化水素のベンゼン,トルエン,飽和脂肪酸のギ酸,酢酸などを例示しているが,これらの分子量の小さな化合物相互の関係と,本件での化合物No.II-10 と「先願発明」化合物のような分子量の大きな化合物相互の関係について,同一に扱ってよいかは不明というべきである。

 また,前記1(3) エ,オからすれば,乙4,5で開示された,それぞれ同族列の関係にある各化合物の化学的性質(有機EL素子としての性質を含む。)が類似していることが認められるが,これが直ちに,化合物No.II-10 と「先願発明」化合物の関係にも適用できるか明らかではない上,特許法29条2項の進歩性を判断する場合であれば格別,同法29条の2第1項により先願発明との同一性を判断するに当たっては,化合物双方が同族列の関係にあることをもって,一方の化合物の記載により他方の化合物が「記載されているに等しい」と解するのは相当ではない(前述のとおり,一般に化学物質発明の有用性をその化学構造だけから予測することは困難であり,試験してみなければ判明しないことは当業者の広く認識するところであるからである。)。

 このほか,被告は,「正孔注入輸送を司る本質的部位が分子中のN-フェニル基であること」は技術常識であって,同事実と先願明細書等の記載からすれば,「フェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れる」旨主張している。

 確かに,前記1(3) ア,イのとおり,「正孔注入輸送を司る本質的部位が分子中のN-フェニル基である」旨の被告の主張に整合する文献(乙1,2)が存在するほか,先願明細書等には「分子中にN-フェニル基等の正孔注入輸送単位を多く含み,R 1 ~R4にフェニル基を導入してビフェニル基にすることでπ共役系が広がり,キャリア移動に有利になり,正孔注入輸送能にも非常に優れる」旨の記載がある(【0058】)。

 しかし,前述のとおり,特許法29条の2第1項による先願発明との同一性の判断は,同法29条2項の進歩性の判断とは異なるから,上記のような「公知技術」を安易に参酌して先願明細書等の記載を補充するのは相当ではなく,メチル基の有無を捨象して化合物No.II-10 と「先願発明」化合物を同視し,「先願発明」化合物が先願明細書等に実質的に記載されていたとみることは相当ではない。