2017年6月25日日曜日

誤記の訂正の妥当性について争われた事例

平成29年5月30日判決言渡
平成28年(行ケ)第10154号 審決取消請求事件

1.概要
 本件は、特許権者よる成立特許の訂正を求める訂正審判請求において、下記の訂正事項が、特許法126条1項2号所定の「誤記・・・の訂正」を目的する訂正事項に該当しないと判断された審決に対する、審決取消訴訟の知財高裁判決である。
 知財高裁は、訂正が、誤記の訂正を目的とするものであると判断し、審決を取り消した。
 主な争点は、訂正後の内容が、明細書の記載の範囲内で導くことができるものでなければならないとする特許庁の判断の適法性についてである。
 知財高裁は、明細書に記載されていない技術常識も考慮して、誤記訂正が認められるべきであると判断した。

2.本件訂正の訂正事項
明細書【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」と
いう記載を「EAC(アクリル酸エチル,804ml,7.28mol)」という記
載に訂正する(以下「本件訂正事項」という。)。

3.審決の理由の要点
 「(1) 目的要件について
 ア 明細書の誤記を目的とする訂正が認められるためには,特許がされた明細書の記載に誤記が存在し,それ自体で又は図面の他の記載との関係で,誤りであることが明らかであり,かつ正しい記載が願書に最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面(以下「当初明細書等」という。)から自明な事項として定まる必要がある。
 イ 本件訂正事項についてみると,【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載に,一見して誤りが存在することは理解できず,関係する他の明細書の[合成例4]の記載や図1との関係をみても,酢酸エチルという化合物名やEACという略称の表記は一致していて,明らかな誤記が存在するとはいえない。」

4.裁判における被告(特許庁長官)の主張
「取消事由1(目的要件の判断の誤り)に対し
 (1) 明細書の誤記を目的とする訂正が認められるための判断基準は,審決記載のとおり,特許がされた明細書の記載に誤記が存在し,それ自体で又は明細書又は図面の他の記載との関係で,誤りであることが明らかであること,かつ,正しい記載が願書に最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面から自明な事項として定まることが必要であり,「誤記」というためには,訂正前の記載が誤りで訂正後の記載が正しいことが,当該明細書及び図面の記載や当業者の技術常識などから明らかで,当業者であればそのことに気付いて訂正後の趣旨に理解するのが当然でなければならない,というものである。
 このような判断基準を前提とすると,明細書における訂正前の記載が一見して誤りであると理解でき,訂正後の記載が正しい記載として一義的に定まるといえるのであれば,その訂正は,誤記の訂正を目的とするものといえる。
 これに対して,原告は,審決は,当業者であればその記載をどのような趣旨として理解するかを十分に考慮していないとか,正しい記載が当初明細書等の記載から自明な事項として定めるか否かを当初明細書等の表記のみに基づいて判断し,当業者であればその記載をどのような趣旨として理解するかを十分考慮せずに判断をしたとか,当業者が技術常識に基づいて当初明細書等の記載内容をどのような趣旨として理解するかを考慮しないで誤記に関する判断をしたなどと主張する。
 しかしながら,審決は,上記判断基準に従って,原告から提出された参考資料も検討した上で,当業者の立場から,「酢酸エチル」の箇所が一見して誤りであると理解でき,訂正後の「アクリル酸エチル」が正しい記載として一義的に定まるとはいえないと判断したものであり,当初明細書等の表記のみに基づいて判断したものではない。
 また,その判断に当たっては,誤りであることが明らかな箇所が定まれば,その誤りの記載の本来の記載を解釈するために,明細書における前後の記載やその記載に関係した技術常識を参酌することは許容される余地があるものの,原則として,明細書の記載に基づいて判断されるものであり,技術常識の名を借りて,周知技術であるからといって,明細書の記載を離れて,種々の周知技術を解釈に用いて明細書に記載のない事項を導いてよいわけではない。
 そのことは,明細書の内容を信じる第三者との公平性の観点からも整合するもので,記載自体に変動が生じた場合に不特定多数の一般第三者に影響を及ぼす弊害を防止することを考慮し,明細書の表示を信頼する第三者の利益を保護するために訂正の範囲を最小限のものとしている訂正審判制度の趣旨とも合致するものである。」

5.裁判所の判断のポイント
「3 取消事由1(目的要件の判断の誤り)について
 (1) 特許法126条1項2号は,「誤記・・・の訂正」を目的とする場合には,願書に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面の訂正をすることを認めているが,ここで「誤記」というためには,訂正前の記載が誤りで訂正後の記載が正しいことが,当該明細書,特許請求の範囲若しくは図面の記載又は当業者(その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者)の技術常識などから明らかで,当業者であればそのことに気付いて訂正後の趣旨に理解するのが当然であるという場合でなければならないものと解される。
 (2)ア そこで,まず,本件明細書に接した当業者が,明細書の記載は原則として正しい記載であることを前提として,本件訂正前の本件明細書の記載に何らかの誤記があることに気付くかどうかを検討する。
・・・・・
(オ) 【化14】の出発物質である化合物(3)の化学構造,反応剤である「EAC(酢酸エチル)」,生成される化合物(4)の化学構造のうちいずれかの記載に誤記があることに気付いた当業者にとって,「(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載に示された化学物質名と,体積と,モル数とが整合しているかどうかを確認することは容易であるところ,以下の計算の結果,酢酸エチル804mlは,8.21molであることが確認でき,本件明細書に記載されているモル数と整合していないことが理解できる。
(カ) 本件明細書に接した当業者は,前記(ア)~(オ)において検討したとおり,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造については正しいものと理解し,「酢酸エチル」が誤記であると理解するものということができる。
 また,本件明細書に記載された1H-NMRデータや13C-NMRデータのシグナルの位置やシグナル数は,それのみによって化合物(3)及び化合物(4)の化学構造を特定し得るものではないものの,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造と矛盾する点があるとまでは認められないから,本件明細書に接した当業者が,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しいものと理解することを支持するものといえ,少なくともそのような理解を妨げるものであるとはいえない。

 イ 被告は,スキームは,化学反応の概要を示したものにすぎないから,【化14】のスキームに全ての反応工程及び関与成分が記載されているとは限らないし,反応剤を書き漏らしたことも当然あり得るのであるから,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しいからといって,酢酸エチルが当然に誤記となるわけではないと主張する。
 しかしながら,本件発明は,マキサカルシトールの合成に関する新規の中間体及びその製造方法に係るものであるから,本件明細書には,ビタミンD2又は既知の化合物(1)から最終生成物であるマキサカルシトールが得られることが追試可能な程度に記載されるのが通常であるといえ,本件明細書の[合成例4]以外の合成例の記載内容等に照らしても,[合成例4]の記載に接した当業者において,反応剤や他の反応工程や関与成分が記載されていないものと理解するものとはいえない。被告の主張は,一般論として存在する抽象的な可能性をいうものであって,本件明細書に妥当するものということはできないから,採用することはできない。
 (4)ア 次に,前記(3)のとおり,【0034】の「酢酸エチル」の記載が誤記であることに気付いた当業者が,正しい記載が「アクリル酸エチル」であると分かるかどうかについて,検討する。
・・・・
そして,【0034】の反応機構から,正しい反応剤が①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル,又は②アクリル酸エチルに限定されることを理解した場合に,これらの反応剤の体積及びモル数が「804ml,7.28mol」という記載に整合するかどうかを検証してみると,以下の計算の結果,アクリル酸エチルの方が,本件明細書記載の上記数値に整合することが理解できる。
・・・
(ウ) 以上のとおり,「EAC」は,「アクリル酸エチル」の英語表記と整合し,略称と一致するものである上,モル数の記載とも整合するのであるから,当業者は,正しい反応剤が「アクリル酸エチル」であることを理解することができるというべきである。このことは,「アクリル酸エチル」が「EA」と略称されることがあるとしても(乙3,4),左右されるものではない。
 イ(ア) 被告は,明細書における特定の記載が明らかな誤記として,当業者がそのように当然理解するかどうかは,原則として,明細書の記載に基づいて判断されるもので,明細書に記載のない反応機構を検討して反応剤を推定して,初めて明細書の記載からプロピオン酸エチル又はアクリル酸エチルと理解できるというのであれば,二つの選択肢に限定することに関しても,正しい記載が一義的に理解できることにならないと主張する。
 しかしながら,明細書に接した当業者は,出願当時の技術常識を踏まえて明細書の記載を理解するのであるから,明細書に直接記載のない事項であっても,当業者は,技術常識を参酌して,当該明細書に記載された技術的事項及びそれらの記載から自明な事項の内容を理解することができるというべきである。そして,本件明細書に接した当業者が,本件出願日当時の技術常識を踏まえて,【化14】において化合物(3)と反応する反応剤は,①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又は②アクリル酸エチルのいずれかであると理解することは,前記ア(イ)のとおりである。
 (イ) 被告は,反応剤自体を書き漏らした可能性もあるし,スキームは,出発物質とそのプロセスの目的物質を表しているにすぎず,反応が,求核置換反応又は求核付加反応の一段階反応とは限らず,素反応を考慮すれば,複数ステップである反応を生じる場合もあるし,何れかのステップで,他の成分が関与する場合もあるので,全てのステップ,全ての関与成分の記載があるとは限らないスキームの記載のみから反応剤を二つに限定することはできないと主張する。
 しかしながら,前記(3)イのとおり,[合成例4]の記載に接した当業者において,反応剤や他の反応工程や関与成分が記載されていないものと理解するものとはいえないのであって,被告の主張は,一般論として存在する抽象的な可能性をいうものにすぎないから,被告の主張は,理由がない。
 (ウ) 被告は,明細書の記載の試薬の純度が100%であると仮定する理由はないし,体積やモル数にも誤記が存在していたかもしれず,そのような仮定や体積やモル数に誤記がないという前提の下に選択肢を限定した上で,一番近い化合物であるはずであるという結論自体,正しい記載が一義的にアクリル酸エチルに決まることを説明しているとはいえないと主張する。
 しかしながら,酢酸エチル,アクリル酸エチル,3-クロロプロピオン酸エチル等が,いわゆる汎用化学品として,高純度のものが市販されている化合物であると認められること(甲8,11,14,15)からすると,本件明細書に接した当業者は,市販の高純度の試薬を用いたものと理解するのが合理的であるといえる。また,本件明細書における反応剤の体積やモル数については,それが誤りであると疑うべき事情は認められないから,それを一応正しいものとして反応剤の体積やモル数の計算を行うことは,通常の合成を行う上で必要な行為であり,それによって容易に整合性を確認できるものと認められる。したがって,被告の主張は,理由がない。
 (5) 以上によると,本件明細書に接した当業者であれば,本件訂正事項に係る【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載が誤りであることに気付いて,これを「EAC(アクリル酸エチル,804ml,7.28mol)」の趣旨に理解するのが当然であるということができる。
 したがって,本件訂正は,特許法126条1項2号所定の「誤記・・・の訂正」を目的とするものということができる。