2013年8月19日月曜日

ラセミ体化合物が公知の場合に、光学活性体の医薬用途発明の新規性、進歩性が肯定された事例


知財高裁平成25年7月24日判決

平成24年(行ケ)第10206号 審決取消請求事件

 

1.概要

 本件は、特許無効審判の審決(権利有効、請求棄却)に対する審決取消訴訟判決である。請求人が主張する無効理由は新規性欠如及び進歩性欠如であった。知財高裁は審決は適法であると判断した。

 本件特許発明請求項1には

「実質的に(R)体を含有しない,(S)-4-〔4-〔(4-クロロフェニル)(2-ピリジル)メトキシ〕ピペリジノ〕ブタン酸・ベンゼンスルホン酸塩を有効成分としてなる,医薬組成物。」

と記載されている。

 一方、先行技術文献である甲2公報には、

「4-〔4-〔(4-クロロフェニル)(2-ピリジル)メトキシ〕-1-ピペリジル〕ブタン酸のベンゼンスルホン酸塩を有効成分とする抗ヒスタミン剤」

 が開示されている。

 すなわち、甲2公報では、(R)体化合物と(S)体化合物とが等量混合したラセミ体が開示されているのに対して、本件特許発明では、活性の特に高い(S)体のみに特定されている。

 争点は以下の二点

(争点1 新規性)ラセミ体を開示する甲2公報により、本件特許発明の新規性が否定されるか否か。原告(無効審判請求人)は、東京高裁平成3年10月1日判決(平成3年(行ケ)第8号)(判決文中では「東京高裁平成3年判決」という)及び特許庁の運用指針「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」(昭和50年10月特許庁策定)(判決文中では「運用指針」という)を根拠として,ラセミ体が開示されていれば,(R)体及び(S)体がそれぞれ開示されていると見るべきであり,特に本件化合物については,光学異性体の存在が甲2公報に明記されているのであるから,(S)体を対象とする本件特許発明が新規性を欠くことは明らかであると主張した。

(争点2 進歩性)ラセミ体を開示する甲2公報により、本件特許発明が容易に想到可能か否か。

 

 争点1に関して知財高裁は、本件特許の優先日(平成8年12月26日)当時の技術常識を参酌して、ラセミ体に対して光学活性体は新規性を有すると判断した。裁判所は、東京高裁平成3年判決で新規性が争われた特許出願の優先日昭和53年1月31日や、昭和50年10月制定の運用指針の当時の技術常識では、ラセミ体と光学異性体とは差異がないものと認識されていたが、平成8年当時においてはラセミ体と光学異性体とが異なるものと認識されるようになった、という技術常識の変化を理由に新規性を肯定しており、大変興味深い。

 争点2に関して知財高裁は、ラセミ体を開示する甲2公報に基づいて(S)体を単離すること自体は容易であると指摘したが、(S)体は、ラセミ体の効果から予測される効果を上回る有利な効果を有することを理由に、進歩性を肯定した。

 

2.裁判所の判断のポイント

2.1.新規性に関する判断

上記甲75の1刊行物の記載によれば,本件特許の優先日(平成8年12月26日)における技術常識として,光学異性体の間で生物に対する作用が異なる場合があることが広く知られており,近年の不斉合成や光学分割についての技術の進歩により,光学異性体間で生物に対する作用が異なる化学物質については,これをラセミ体のままで使用するのではなく,光学異性体として使用するようになりつつあったことが認められる。

 このような本件特許の優先日における技術常識を参酌すれば,ある化学物質の発明について光学異性体の間で生物に対する作用が異なることを見出したことを根拠として特許出願がされた場合,ラセミ体自体は公知であるとしても,それを構成する光学異性体の間で生物に対する作用が異なることを開示した点に新規性を認めるのが相当である。

(4) ラセミ体の開示とその光学異性体の開示に係る原告の主張について

 原告は,東京高裁平成3年10月1日判決(平成3年(行ケ)第8号)及び運用指針を根拠として,ラセミ体が開示されていれば,(R)体及び(S)体がそれぞれ開示されていると見るべきであり,特に本件化合物については,光学異性体の存在が甲2公報に明記されているのであるから,(S)体を対象とする本件特許発明が新規性を欠くことは明らかであると主張する。

 しかし,東京高裁平成3年判決は,昭和53年1月31日を優先日として特許出願された発明の新規性を否定した審決の取消しを求める審決取消訴訟において,一対の光学異性体から成るラセミ体が刊行物に記載されている場合,その一方を単独の物質として提供する発明の新規性を有するか否かが争われた事案について,光学異性体は,一般に,旋光性の方向以外の物理的化学的性質においては差異がないから,ラセミ体の開示をもって光学異性体が開示されているというべきであるとして上記発明の新規性を否定した判決であり,本件特許の優先日(平成8年12月26日)の技術常識を参酌したものでないことは明らかであるから,同判決を本件について適用すべき裁判例ということはできない。

 すなわち,先に説示したとおり,本件特許の優先日(平成8年12月26日)における技術常識に照らせば,ある化学物質の発明について光学異性体の間で生物に対する作用が異なることを見出したことを根拠として特許出願がされた場合,ラセミ体自体は公知であるとしても,それを構成する光学異性体の間で生物に対する作用が異なることを開示した点に新規性を認めるべきであって,本件特許の優先日における判断として,ラセミ体の開示をもって光学異性体が開示されているとして新規性を否定するのは誤りである。

 また,運用指針については,確かに,原告の主張する規定(「立体異性体の存在が自明でない化学物質の発明と,その立体異性体の発明とは,原則として別発明とする。(なお,ここでいう自明とは単純な光学異性体のように,不整炭素原子の存在により,その光学異性体の存在が明らかである場合をいう。)」(特-13頁))があり,この規定は,不斉炭素原子の存在により,その光学異性体の存在が明らかである場合については,立体異性体の存在が自明であるとして,ラセミ体の開示をもって光学異性体の開示があると見るべきである旨を述べているものと見る余地がなくはない。

 しかし,上記のとおり,本件特許の優先日における技術常識は,昭和53年当時には未だ技術常識として確立していなかったのであるから,昭和50年当時にも技術常識として確立していなかったことは明らかである。本件特許発明の新規性の有無については,本件特許の優先日(平成8年12月26日)における技術常識に照らして判断すべきであり,運用指針の規定を根拠とするのは誤りである。

 したがって,東京高裁平成3年判決及び運用指針を根拠とする原告の上記主張は採用することができない。

(5) 甲8記載の方法は自明であるとする原告の主張について

 原告は,本件特許の優先日当時,甲8記載の方法で使用されたカラムを使用して実際に分割に成功した例は多数存在している(甲25,35)として,本件化合物を光学分割する方法として甲8記載の方法は当業者にとって自明であったというべきであり,甲2公報には甲8記載の方法で本件化合物を光学分割する方法が記載されているに等しいと主張する。

 しかし,甲8記載の方法で使用されたカラムを使用して分割できる物質が多数存在するとしても,当該カラムを使用して本件化合物ないしこれと化学構造が類似した化合物を光学分割できる例が知られていない以上,本件特許の優先日当時において,本件化合物を光学分割する方法として甲8記載の方法は当業者にとって自明であり,甲2公報には甲8記載の方法で本件化合物を光学分割する方法が記載されているに等しいということはできない。

 したがって,原告の上記主張は理由がない。

(6) 延長登録と本件特許発明の新規性との関係に係る原告の主張について

ア 原告は,被告らが(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩を含む医薬が受けた製造承認に基づいて,甲2公報に係る特許権の存続期間の延長登録を受けており,この点について,審決が,延長登録を受けるためには,特許法67条2項所定の処分を受けたものに係る発明が特許発明の特許請求の範囲の技術的範囲に包含されていればよく,当該処分に係る発明が明細書等に個別具体的に記載された発明であることは必要ではないと述べているが,当該処分を受けたものに係る発明が甲2公報の特許請求の範囲に属することを理由として延長登録が認められている以上,甲2公報に(S)体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が開示されていることは否定できないというべきであると主張する。

 確かに,当該処分を受けたものに係る発明が特許発明の特許請求の範囲の技術的範囲に包含されているのであれば,その発明は明細書に開示されているはずであり,その発明が明細書に開示されていないのであれば,特許は特許法36条6項1号の要件を欠くことになるから,その限りにおいて原告の主張は首肯することができる余地もある。

 しかし,特許庁における延長登録の実務が審決の述べるようなものであるとすれば,その当否はさておき,甲2公報に係る特許権の存続期間の延長登録が認められているからといって,甲2公報に(S)体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が開示されているということにはならない。また,そもそも,本件特許発明の新規性の有無を検討する上で,甲2公報に(S)体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が開示されているか否かという点については,本件特許の優先日の技術常識を参酌して判断すべき事柄であり,甲2公報に係る特許権の延長登録が認められたことは,この判断に何ら影響を及ぼすものではない。

したがって,原告の上記主張は採用することができない。」

 

2.2.進歩性に関する判断

「・・・審決が認定した本件特許発明1と甲2発明との相違点である,本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が「実質的には(R)体を含有しない,(S)体」であるのに対し,甲2発明では光学異性体についての特定がされていない点については,その構成という観点からは,当業者が容易に想到可能であったものということができる。

 しかし,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩が,甲2公報に記載された本件化合物のベンゼンスホン酸塩と比較して顕著な効果を有するのであれば,本件特許発明1の進歩性を肯定することができるというべきであるから,次に,実質的には(R)体を含有しない,(S)体である本件化合物のベンゼンスルホン酸塩の有する効果について検討する。

(5) 本件特許発明の効果について

本件明細書(甲1)には,ヒスタミンショック死抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約43倍強い活性を示したこと,homologousPCA反応抑制作用試験において(S)-エステルが(R)-エステルより約100倍以上強い作用を示したことが記載されている(【0030】~【0035】)ところ,本件明細書は,この本件化合物のエステルによる(S)体と(R)体の比較を根拠に,本件化合物の(S)体がより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用すると結論づけている(【0048】)。

 そして,このことは,甲9の4の意見書に添付された実験成績証明書に,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍の活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体に対して約3倍の生存率を示したことが記載されていることからも裏付けられる。

 そうすると,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる。

 したがって,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸は,審決が認定した甲2発明であるラセミ体の本件化合物のベンゼンスルホン酸塩と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものといえる。

イ 原告の主張について

(ア)原告は,本件明細書に記載されているのは,(S)-((S)ブタン酸エチルのフマル酸塩)と(R)-エステル((R)-ブタン酸エチルのフマル酸塩)の薬理効果を比較したデータであり,エステル化されていない本件化合物の(S)体や(R)体はもちろん,ラセミ体との効果上の違いは何ら理解できないと主張する。

 しかし,本件明細書には,ヒスタミンショック死抑制作用試験及びhomologousPCA反応抑制作用試験で,(S)-エステルが(R)-エステルより優れた活性を有することが記載されていることは前記1(1)ア認定のとおりであり,また,その【0036】には,「(S)-エステルの代謝物である式()の(S)-ピペリジン誘導体は,(S)-エステルと同等の薬理作用を示す」との記載があり,【0048】には,「(S)-ピペリジン誘導体()のベンゼンスルホン酸塩及び安息香酸塩は,抗ヒスタミン活性及び抗アレルギー活性を有するより優れた光学活性体であり,生体内で活性本体として作用し,また物理化学的に優れた安定性を示すことから,医薬品として適した性質を有する」との記載がある(甲1)ことからすれば,本件明細書には,本件化合物の(S)体が(R)体と比較して優れた活性を有することが記載され,開示されているというべきである(なお,甲9の4に添付された実験成績証明書には,モルモットから摘出した回腸におけるヒスタミン誘発収縮に対する薬理試験(試験3)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸が,そのラセミ体に対して高い活性を示したことが記載されており,また,本件明細書に記載のヒスタミンショック死抑制作用試験と同様の試験(試験4)の結果,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸がラセミ体より高い生存率を示したことが記載されている。)。

 したがって,本件明細書には,本件化合物の(S)体が(R)体と比較して優れた活性を有することが開示されているものと認められ,原告の上記主張を採用することはできない。

(イ)原告は,ラセミ体ではそれを構成する2種の光学異性体のうち一方のみが所望の生物活性を有している場合が大変多い(甲71)ところ,(S)体が(R)体より効果があるといっても,それは光学異性体間でごく普通に認められることであるとも主張する。

 しかし,甲9の4に添付された実験成績証明書に記載の薬理試験では,上記のとおり,本件化合物の(S)体のベンゼンスルホン酸塩がそのラセミ体に対して約7倍という高い活性を示したことが記載されているところ,この数値は,仮に2種の光学異性体のうち一方のみが生物活性を有し,他方が生物活性を有さないと仮定した場合の活性の差,すなわち,2倍の差を上回るものである。

 したがって,本件化合物の(S)体は,その(R)体と比較して,当業者が通常考えるラセミ体を構成する2種の光学異性体間の生物活性の差以上の高い活性を有するものということができる。原告の上記主張を採用することはできない。

(ウ)原告は,本件化合物の(R)体が全く薬効を示さないことは国立医薬品食品衛生研究所長の審査報告書(甲22)で明らかにされており,同報告書には,(R)体は一般症状及び循環器系にも影響を与えないことが記載されているので,ラセミ体と比較しても本件化合物の(S)体は2倍程度の効果しか示さないこととなり,本件発明に進歩性を基礎づけるような顕著な効果は認められない旨を主張する。

 しかし,上記報告書(甲22)には,「光学異性体であるR体は薬効を示さなかった。」と記載されているにすぎず,この記載が,いかなる薬理試験において,どの程度の用量を使用した結果に基づくものであるかは不明である。

 したがって,このような記載を根拠に本件特許発明の効果を否定することはできない。

ウ 以上のとおり,原告の主張はいずれも採用することができない。本件特許発明1は,審決が認定した甲2発明と比較して,当業者が予測することのできない顕著な薬理効果を有するものである。」