2012年7月23日月曜日

進歩性欠如の拒絶審決が違法であると判断された事例


知財高裁平成24年6月26日判決
平成23年(行ケ)第10316号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は、本願発明の進歩性を否定した拒絶審決が、知財高裁により覆された事例である。
 本願発明は「半導体装置を金型中に載置して,該金型と該半導体装置との間に供給した硬化性シリコーン組成物を圧縮成形することによりシリコーン硬化物で封止した半導体装置を製造する方法」に関する発明であり、所定の構造の硬化性シリコーン組成物を使用することを特徴とする。引用発明には、シリコーン組成物を用いて封入するという特徴は書かれていないが、その他の点は本願発明と共通する発明が開示されている。
 審決では半導体装置を保護するために本願発明の所定構造の硬化性シリコーン組成物を用いることは公知であること、本願発明が奏する有利な効果が明細書中で確認されていないことを理由として、本願発明の進歩性を否定した。
 裁判所は、所定のシリコン系樹脂が周知であるとしても、「半導体装置を金型中に載置し,金型と半導体装置との間に封止用樹脂を供給して圧縮成形するという樹脂封止方法」においてシリコン系樹脂を用いることが周知な技術であると認めることはできないとして、審決は違法であると判断した。裁判所はさらに、明細書中に実施例による裏付けが必須であるという被告(特許庁)の主張は、進歩生判断とは関係ないと判断した。

2.請求項1に記載の本願発明
「半導体装置を金型中に載置して,該金型と該半導体装置との間に供給した硬化性シリコーン組成物を圧縮成形することによりシリコーン硬化物で封止した半導体装置を製造する方法であって,前記硬化性シリコーン組成物が,(A)一分子中に少なくとも2個のアルケニル基を有するオルガノポリシロキサン,(B)一分子中に少なくとも2個のケイ素原子結合水素原子を有するオルガノポリシロキサン,(C)白金系触媒,および(D)充填剤から少なくともなり,前記(A)成分が,式:RSiO3/2(式中,Rは一価炭化水素基である。)で示されるシロキサン単位および/または式:SiO4/2で示されるシロキサン単位を有するか,前記(B)成分が,式:R'SiO3/2(式中,R'は脂肪族不飽和炭素-炭素結合を有さない一価炭化水素基または水素原子である。)で示されるシロキサン単位および/または式:SiO4/2で示されるシロキサン単位を有するか,または前記(A)と前記(B)成分のいずれもが前記シロキサン単位を有することを特徴とする,半導体装置の製造方法。」

3.引用発明との一致点相違点
 審決が,上記結論に至る過程で認定した引用発明の内容,本願発明と引用発明の一致点及び相違点は,次のとおりである。
引用発明の内容
「被成形品16の基板12を下型23にセットし,型締め時に所定の樹脂圧が得られるように所定の強さの付勢力を有するものを選択する,被成形品16の基板12上に樹脂封止用の樹脂50を供給する樹脂封止方法」
一致点
「半導体装置を金型中に載置して,該金型と該半導体装置との間に供給した組成物を圧縮成形することにより封止した半導体装置を製造する方法」である点
相違点
本願発明では,「シリコーン硬化物」で封止し,封止用の「組成物」が,所定の構造を有する「硬化性シリコーン組成物」であるのに対し,引用発明には,「シリコーン硬化物」で封止する点と,封止用の樹脂50の組成に関する記載がない点

4.拒絶審決
 拒絶査定不服審判の審決では本願発明に用いられる所定の構造を有する硬化性シリコーン組成物は、引用例2、引用例3等において半導体装置を保護する組成物として開示されている周知の組成物であることから、引用発明において所定の構造の硬化性シリコーン組成物を使用して本発明を完成させることは容易であると判断した。
 出願人(原告)は本願発明が奏する有利な効果を考慮すれば、本願発明の進歩性は肯定されるべきだと主張した。しかしながら審決では、明細書中に効果を裏付ける記載がないことから「明細書に基づかない主張」であると判断され、有利な効果は考慮されなかった。

5.裁判所の判断のポイント
(1) 本願発明と引用発明の解決課題における相違について
 上記のとおり,本願発明は,封止樹脂の厚さを精度良くコントロールし,ボンディングワイヤーの断線や接触等の発生を防止し,封止樹脂にボイドが混入することを防止するため,金型中に半導体装置を載置し,金型と半導体装置との間に封止用樹脂を供給して圧縮成形する方法に関するもので,半導体装置を樹脂封止するに当たり,半導体チップや回路基板の反りが大きくなるのを防止するとの課題を解決するために,封止樹脂である硬化性シリコーン組成物として特定の組成物を選択することにより,比較的低温で硬化性シリコーン組成物を圧縮成形することを可能にした発明である。なお,「封止」とは,半導体などの電気電子部品を包み埋め込んで,湿気,活性気体,振動,衝撃などの外部環境からこれを保護し,電気絶縁性や熱放散性を保持するために行われるものである(甲12,13)。そして,封止が行われる前に,半導体素子等に,電気特性の安定化,耐湿性改良,応力緩和,ソフトエラー防止を目的として,表面保護コーティングが行われる(甲12)。
 これに対し,引用発明は,本願発明と同様に,半導体装置を金型中に載置し,金型と半導体装置との間に封止用樹脂を供給して圧縮成形するという樹脂封止方法に関する発明であって,引用例1には,半導体チップや回路基板の反りが大きくなるのを防止するという課題に関し,何らの記載も示唆もなく,また,樹脂材に関しては熱硬化性樹脂でも熱可塑性樹脂でも使用可能であるとの記載があるものの(段落【0018】),封止用樹脂の組成については何らの限定もない。
(2) 本願発明の相違点に係る構成の容易想到性の有無について
引用例2及び引用例3には,硬化性シリコーン組成物として,本願発明における硬化性シリコーン組成物と同じ組成を有する組成物が開示されている。しかし,前記のとおり,引用例2における硬化性シリコーン組成物は,LED表示装置等の防水処理のための充填剤や接着剤として使用するものであること,LEDや外部からの光を反射しないよう,艶消し性に優れているという特性を有することが示されている。半導体装置の封止用樹脂とLED表示装置等の充填剤や接着剤とは,使用目的・使用態様を異にするものであり,引用例2には,上記のような硬化性シリコーン組成物を,半導体装置の樹脂封止に使用するという記載も示唆もない。したがって,引用発明に接した当業者が,引用発明に引用例2に記載された技術的事項を組み合わせ,引用発明における封止用樹脂として引用例2に開示された硬化性シリコーン組成物を使用することを,容易になし得るとはいえない。
 また,引用例3における硬化性シリコーン組成物は,半導体素子の表面を被覆するための半導体素子保護用組成物として使用するものであり,前記のとおり,半導体素子の表面被覆は封止の前に行われる工程であって,半導体などを包み埋め込む「封止」とは,その目的等において相違する。引用例3には,硬化性シリコーン組成物の硬化物による被覆の後,同工程とは別個独立に樹脂封止が行われることを前提とした上で,硬化物と封止樹脂との熱膨張率が異なることによって生じる問題点を解決する組成物として,耐湿性及び耐熱性が優れた半導体装置を形成できる半導体素子保護用組成物である硬化性シリコーン組成物が示されている。「被覆」と「封止」とは,その目的等において相違する工程であることに照らすならば,引用発明に接した当業者が,引用発明に引用例3に開示された硬化性シリコーン組成物を組み合わせることを,容易になし得るとはいえない。
 以上のとおり,当業者が,引用発明に引用例2及び引用例3に記載された発明を組み合わせて,本願発明における相違点に係る構成に至るのが容易であるとは認められない。
被告の主張に対して
この点に関して,被告は,引用例2,引用例3及び甲4文献記載の組成物は,半導体装置を保護する組成物であり,シリコン系樹脂により半導体装置を封止して保護することは,周知慣用の技術手段であり,半導体装置を封止するために,シリコン系樹脂として周知である本願発明における硬化性シリコーン組成物を用いることは,当業者が容易になし得ることであると主張する。
 しかし,以下のとおり,被告の主張は,理由がない。
 樹脂封止は,半導体装置の封止手段として一般的に行われている方法であり,樹脂封止のうち,ポッティング法,キャスティング法,コーティング法,トランスファ成型法において,封止用樹脂としてシリコン系樹脂を使うことは,当業者に周知な技術であると認められる(甲4,12,乙1,2)。しかし,引用発明のように,半導体装置を金型中に載置し,金型と半導体装置との間に封止用樹脂を供給して圧縮成形する樹脂封止方法において,封止用樹脂としてシリコン系樹脂を使うことが当業者に周知な技術であると認めるに足りる証拠はない。被告が本訴において提出する乙1及び2には,ICチップを樹脂封止する際,シリコン系樹脂で封止することが通常行われている旨の記載があるが(乙1の段落【0004】,乙2の段落【0007】),これらの記載から,半導体装置を金型中に載置し,金型と半導体装置との間に封止用樹脂を供給して圧縮成形するという樹脂封止方法においても,シリコン系樹脂を用いることが当業者に周知な技術であると認めることはできない。
 したがって,引用例2,引用例3及び甲4文献から,本願発明における硬化性シリコーン組成物が当業者に周知な組成物であると認められるとしても,引用発明の樹脂にこの硬化性シリコーン組成物を使用することが容易になし得ると認めることはできない。
 なお,被告は,本願明細書の記載から,原告の主張に係る「半導体装置を封止する際,ボイドの混入がなく,シリコーン硬化物の厚さを精度良くコントロールすることができ,ボンディングワイヤーの断線や接触がなく,半導体チップや回路基板の反りが小さい半導体装置を効率よく製造することができ()」という本願発明の効果を確認することができないとの主張もしている。しかし,被告の上記主張は,容易想到性に関する審決の判断の当否に影響を与える主張ではないから,その主張自体失当である。

2012年7月17日火曜日

請求項の用語の意義が、明細書を参酌して解釈された事例


知財高裁平成24年4月26日判決
平成23年(行ケ)第10336号 審決取消請求事件

1.概要
 拒絶審決において、本願発明にける「多重スイッチルータ」という特徴が、引用例2に開示された構成と同一であると認定され、この認定を前提として本願発明の進歩性が否定された。
 審決取消訴訟では、本願発明における「多重スイッチルータ」の意味を明細書の開示を参酌して解釈した。そして、この解釈を前提として、本願発明における「多重スイッチルータ」は引用例2に開示されておらず、審決は取り消されるべきであると判断した。

2.本願発明
「【請求項1】同じ構造のもの同士が複数隣接して結合し集合型コンピュータを構成するための結合型コンピュータであり,多面形状の複数のケーシング毎に,CPUやメモリIC及び入出力インターフェースなどのコンピュータ構成要素を内蔵し,該各多面形状のケーシングの各面ごとにそれぞれコードレス型の入出力用信号伝達素子を配設し,該各多面形状のケーシング毎に信号選択及びバイパス機能を有する多重スイッチルータを内蔵し,前記ケーシングの各面ごとに設けられた前記入出力用信号伝達素子を該ケーシング内の前記入出力インターフェースに接続し,前記ケーシングの各面に設けられた入出力用信号伝達素子と,これに隣接する他のケーシングの各面に設けられた入出力用信号伝達素子を通じて他のコンピュータの入出力用信号伝達素子との間で双方向のデータ伝送を行うことができるようにし,前記ケーシングの各面に設けられた複数の入出力用信号伝達素子を前記多重スイッチルータを介して該ケーシング内の前記入出力インターフェースに接続し,前記入出力用信号伝達素子による他のコンピュータからの信号の取り込み,吐き出しを信号選択及びバイパス機能を有する前記多重スイッチルータを通じて行うようにし,前記多重スイッチルータにより前記ケーシングの各面に配設されたコードレス型の複数の入出力用信号伝達素子間にバイパスを形成できるようにしたことを特徴とする結合型コンピュータ。」

3.審決のポイント
 本願発明と引用例1に開示された引用発明との相違点2は、本願発明は,「該各多面形状のケーシング毎に信号選択及びバイパス機能を有する多重スイッチルータを内蔵し」との特定を有するのに対し,引用発明は,そのような特定を有しない(そもそも,多重スイッチルータを有しない)点と認定された。
 審決では、上記相違点2に係る本願発明の「多重スイッチルータ」は、引用例2に開示された発明における「ルータ部」に対応すると認定した。

4.原告(出願人)が主張する取消理由1
「審決には,引用例2記載の発明のルータ部が本願発明の多重スイッチルータに相当するとの認定,判断をした誤りがある。
 すなわち,本願発明の多重スイッチルータにおける「多重」とは,本願明細書の段落【0015】によれば,周波数,時間,符号を使って,データ伝送路の選択を行う信号多重化機能のことをいう。本願発明においては,多重スイッチルータにより入出力ポート間に形成されるバイパスは必然的に双方向にデータ伝送路が形成されることになるから,片方向のみしかデータの伝送ができないものは,入出力ポート間にバイパスが形成されたとはいえない。これに対し,引用例2記載の発明のルータ部は,片方向のみしか伝送路が形成されず,このような状態は,入出力ポート間にバイパスが形成されたとはいえない。
 また,本願発明において,入出力用信号伝達素子は,多面形状のケーシングの各面に配設され,多重スイッチルータに接続しているから,多重スイッチルータは,少なくとも入出力ポート用に4入力4出力(六面体では6入力6出力)の構成を有しているのに対し,引用例2は,2入力2出力あるいは3入力3出力にすぎない。
 したがって,引用例2記載の発明のルータ部は,本願発明の多重スイッチルータに相当するとはいえない。」

5.裁判所の判断のポイント
「「多重スイッチルータ」に関する認定,判断の誤りについて
まず,本願発明に係る「多重スイッチルータ」の意義について検討する。本願発明に係る特許請求の範囲(請求項1)には,多重スイッチルータに関して,①「前記ケーシングの各面に設けられた複数の入出力用信号伝達素子を・・・該ケーシング内の前記入出力インターフェースに接続し,」,②「前記入出力用信号伝達素子による他のコンピュータからの信号の取り込み,吐き出しを信号選択及びバイパス機能を有する」,③「前記ケーシングの各面に配設されたコードレス型の複数の入出力用信号伝達素子間にバイパスを形成できるように(する)」ことが記載されているが,多重スイッチルータの意義は,必ずしも一義的に明確ではない部分がある。そこで,本願明細書の記載を併せて参照することとする。
 本願明細書の上記記載によれば,本願発明は,多数のコンピュータをクラスタ接続して集合型超コンピュータを構成するに当たり,コードにより各コンピュータ間を接続するとコンピュータの集合体積が大きくなること,膨大な量のコードを収納するスペースが必要となること,各コンピュータの結合作業が煩雑となることなどの問題があったことから,これらの問題を解決するべく,集合型コンピュータを構成する各コンピュータの入出力インターフェース等のコンピュータ構成要素を多面形状のケーシングに内蔵し,入出力インターフェースに結合されたコードレス型の信号伝達素子をケーシングの各面に配設し,さらに,他のコンピュータからの信号の取り込み及び吐き出しを「信号選択」及び「バイパス機能」を有する多重スイッチルータを通じて行うようにしたものであることが認められる。
 そして,本願明細書の段落【0007】,【0014】,【0015】,【0016】によれば,①上記「信号選択」機能とは,他のコンピュータからのデータのうち自コンピュータが取り込むべきデータを選択的に取り込むために信号を選択する機能と,形成されたバイパスを含む信号伝送経路を選択するために信号を選択する機能とを総称したものであり,②上記「バイパス機能」とは,入出力用端子間に,入出力インターフェースに取り込まれることなくデータを伝送するためのバイパスを形成するものと認められる。さらに,本願明細書の段落【0015】によれば,「周波数,時間,符号を使ってデータ伝送経路の選択を行う」ことの例示として,各ポートに設定された周波数帯域に応じて互いに分離できるようにされた複数の信号が伝送される例が示されており,これらの記載は,いずれも「多重スイッチルータ」が周波数等を用いた弁別により互いに分離できる状態で複数の信号を伝送することを前提としたものと解される。
 そうすると,本願発明における「多重スイッチルータ」は,①データの導通と遮断を行う開閉ゲートとして作動し,ポートごとの周波数帯域を所定の値に設定することによってポートを閉じてデータの取り込みや吐き出しを阻止し,②各コンピュータが周波数,時間,符号を使ってデータの伝送経路を選択する際,特別の信号伝送経路制御装置を用意することなく,ポート間にバイパスを形成し,③バイパスが形成された場合には,当該コンピュータの入出力インターフェースに取り込まずにポートからポートへとデータを伝送する機能を有するものであること,また「多重」とは,互いに分離できるように複数の信号を物理的に1つの伝送路により伝送することを意味するものといえる。
 以上によれば,本願発明に係る「多重スイッチルータ」とは,データの導通や遮断を行うスイッチとして作動し,かつ,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送されるルータを意味するものであって,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送されないルータはこれに含まれないものと解される。
一方,引用例2には,以下の事項が記載されている。・・・・
・・・・・
 したがって,引用例2には,スイッチ機構を用いたルータの開示はあるものの,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送され得るような「多重スイッチルータ」についての開示はない。
 以上のとおり,本願発明の多重スイッチルータは,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送されているものであるのに対し,引用例2記載の発明のルータ部は,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送され得るようなものではないから,これらが互いに相当する構成であるとした審決の認定,判断には誤りがある。
これに対し,被告は,①本願発明の多重スイッチルータにおける「多重」とは,ルータが当然に有する,データ伝送路の選択を行うための前提となる信号多重化機能を指すにすぎない,②本願発明に係る特許請求の範囲には,多重スイッチルータにつき,周波数,時間,符号を使う点についての記載はなく,本願明細書の記載を参酌しても,周波数,時間,符号を使うものに限定して解釈すべき理由はないなどと主張する。
 しかし,本願発明に係る「多重スイッチルータ」が,データの導通や遮断を行うスイッチとして作動し,かつ,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送されるルータを意味するものであって,互いに分離できる状態で複数の信号が伝送されないルータはこれに含まれないことについては,前記のとおりであり,被告のこの点の主張は,採用の限りでない。」

2012年7月10日火曜日

明細書に薬理データが開示されていない場合に医薬用途発明出願が実施可能要件を満足しないと判断された事例


知財高裁平成24年6月28日判決言渡
平成23年(行ケ)第10179号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は、医薬用途発明の実施可能要件について争われ、審決、裁判ともに実施家脳要件欠如と判断された事例である。
 明細書には医薬用途を具体的に裏付ける実験データなどが記載されていない。出願人は明細書中の記載と技術常識を勘案すればクレーム記載の治療作用が十分に裏付けられていると主張した。また、出願人は、出願後に刊行された文献(参考文献3および4)を意見書に添付して提出していた。
 裁判所は「本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して,当業者において,本願発明を実施できる程度に明確かつ十分な記載ないし開示があると評価できるか否かについて,検討」した。そして、実施可能要件を満たしていないという審決に誤りはないと判断した。出願後に刊行された文献の開示事項については少なくとも判決文においては言及されていない。

 知財高裁平成22年1月28日判決(平成21年(行ケ)第10033号審決取消請求事件)(フリバンセリン事件、本ブログ2010年2月13日記事)において裁判所は、「発明の詳細な説明に記載された技術的事項が確かであるか否か等に関する具体的な論証過程が開示されていない場合において,法36条4項1号所定の要件を充足しているか否かの判断をするに際しても,たとえ具体的な記載がなくとも,出願時において,当業者が,発明の解決課題,解決手段等技術的意義を理解し,発明を実施できるか否かにつき,一切の事情を総合考慮して,結論を導くべき筋合いである。」と判示した。今回の事例の「本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して」という文言からみて、今回の事例における実施可能要件充足性の判断は、フリバンセリン事件において示された「一切の事項を総合考慮して、結論を導く」という手法に沿ってなされた考えられる。なお、フリバンセリン事件の二回目の審決(不服2006-27319、本ブログ2012年3月16日記事)では、請求項1に係る医薬用途発明は実施可能性を満足せず、後発的に提出された薬理効果を証明するための試験結果は参酌することができない旨の判断が示された。この二回目の審決は2012年4月17日に確定している。

2.本願発明
【請求項1】加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。

3.審決の理由の要点
(1) hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用を裏付ける薬理データといえるものは,本願明細書の発明の詳細な説明には何ら記載されておらず,hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用に関し,その有用性を裏付ける薬理データと同視すべき程度の記載もない。
(2) 審判請求人(原告)は,平成18年10月24日付けの意見書において,添付した参考文献3及び4の記載をもとに,A4.6.1抗hVEGF抗体のアフィニティー成熟形態であるラニビズマブが加齢性黄斑変性の治療に有用であることが明らかになっている旨を主張する。しかし,参考文献3及び4は,いずれも本願優先日から10年以上経過した2006年に発行されたものであるとともに,具体的に試験を行った時期が,いずれも本願出願よりも後であって,本願出願時にこれらの事実が明らかにされていたと解することができず,本願発明において,hVEGF拮抗剤についてその医薬用途の有用性を裏付ける薬理データと同視すべき程度の記載の有無の検討に際し参酌することができない。

4.裁判所の判断のポイント
(1) 本願発明の特許請求の範囲の記載(請求項1)は,「加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。」である。他方,本願明細書には,hVEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性に対し治療効果を有することを直接的に示す実施例等に基づく説明は一切存在しない(当事者間に争いがない)。
 そこで,旧特許法36条4項の要件充足性の有無,すなわち,本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して,当業者において,本願発明を実施できる程度に明確かつ十分な記載ないし開示があると評価できるか否かについて,検討する。
本願明細書には,年齢に関連する黄班変性(AMD) の滲出形態が,脈絡膜新血管新生及び網膜色素上皮細胞剥離に特徴づけられること,脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本願発明のVEGF拮抗剤は,AMDの重篤性の緩和において特に有用であると思われること(上記1(2) )が記載され,また,hVEGF拮抗剤の1種である抗hVEGFモノクローナル抗体が,血管内皮細胞の増殖活性を阻害し,腫瘍成長を阻害し,血管内皮細胞走行性を阻害することについての試験結果が示されている(同ク,ケ,サ)。
ところで,甲9は,本願の優先権主張日前の平成7年1月に公表された文献であって,血管新生のメカニズムや細胞増殖因子との関係等についての概要が説明されている(上記1(3) )。同文献には,病的状態に関連する血管新生は,「重症糖尿病網膜症,未熟児網膜症,尋常性乾鮮等の病的状態を作り出す血管新生」,「悪性腫瘍における血管新生のように,病的状態の進行に関与する血管新生」,及び「病的状態からの回復期に認められる血管新生」の3つのカテゴリーに分類して論じられること(同イ),血管新生は様々な物質によって調節されているが,血管新生を促進する重要な因子として,①VEGFばかりでなく,②FGF及び③HGF等のポリペプチドが存在すること,また,VEGFはその発現が細胞の虚血によって制御されており,動脈が閉塞し,あるいは癌細胞が急速に増殖して組織の酸素分圧が低下した場合にVEGFが分泌され,血管新生を引き起こすこと(同オ),さらに,血管新生のメカニズムは解明されつつあるが,どのような病態でどの増殖因子が血管新生にかかわっているのかについては不明な点が多いこと(同カ)が記載され,同記載内容は,本願の優先権主張日である平成7年3月30日当時には技術常識となっていたといえる。
 加齢性黄斑変性の原因である脈絡膜での血管新生は,甲9記載の病的状態を作り出す血管新生のカテゴリーに属するものであるが,上記のとおり,甲9には,血管新生を促進する因子としては,FGFのみではなくVEGFやHGFが知られていたこと,血管新生のメカニズムは解明されつつあるものの,どのような病態でどの増殖因子が血管新生に関与しているかは不明な点が多い点が記載されている。
 上記の記載に照らすならば,脈絡膜での血管新生がVEGFにより促進されるとの事項は,本願の優先権主張日当時に知られていたとはいえず,また,同事項が技術常識として確立していたともいえない。すなわち,甲9では,VEGFが血管新生を促進する因子であることは示されているものの,血管新生にVEGFのみが関与している点は明らかでなく,結局,どの増殖因子が原因であるかは不明であることから,甲9から,hVEGF拮抗剤でVEGFの作用を抑制しさえすれば,脈絡膜における血管新生が抑制できることを合理的に理解することはできない。
 以上に照らすならば,本願発明(「加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。」)の内容が,本願明細書における実施例その他の説明により,「hVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤」を使用することによって,加齢性黄斑変性に対する治療効果があることを,実施例等その他合理的な根拠に基づいた説明がされることが必要となる。
 しかし,前記のとおり,本願明細書には,hVEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性に対し治療効果を有することを示した実施例等に基づく説明等は一切存在しないから,本願明細書の記載が,本願発明を当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されたものということができない。
 したがって,旧特許法36条4項に規定する要件を満たしていないと判断した審決に誤りはない。
(2) これに対し,原告は,本願明細書には,hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用を裏付ける程度の記載がされていると主張する。しかし,原告の同主張は,以下のとおり採用できない。すなわち,
原告は,本願明細書には,加齢性黄斑変性が脈絡膜新血管新生によって特徴づけられることが明確に記載され,「脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本発明のVEGF拮抗剤は,AMD の重篤性の緩和において特に有用であると思われる」などと記載されていることから,当業者であれば,hVEGF拮抗剤が脈絡膜の血管新生を阻害することによって加齢性黄斑変性の治療に使用できることが理解できる旨を主張する。
 しかし,原告の主張は,以下のとおり失当である。
 前記のとおり,脈絡膜における血管新生にVEGFが関与していることは,本願の優先権主張日当時における技術常識として確立した事項ではなく,また,本願明細書には,この点を明らかにする試験結果等は何ら示されていない(上記(1) )。
 この点,本願明細書には,脈絡膜の血管新生によって特徴付けられる加齢性黄斑変性の重篤性の緩和においてVEGF拮抗剤が特に有用であると思われるとの記載がある。しかし,同記載は,本件特許の出願時に知られていた血管新生を促進する3種の因子の1つであるVEGFの拮抗剤を,加齢性黄斑変性の治療に利用する可能性があるということを超えては,意味を有しない。前記のとおり,本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合しても,脈絡膜における血管新生にVEGFが関与していることが何らの説明もされていない以上,同記載部分をもって,VEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性の治療に有効であり,当業者が実施できる程度に明確かつ十分な記載であると解することはできない。
 したがって,本願明細書の「脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本発明のVEGF拮抗剤は,AMD の重篤性の緩和において特に有用であると思われる」との記載部分により,当業者であれば,hVEGF拮抗剤が脈絡膜の血管新生を阻害することによって加齢性黄斑変性の治療に使用できると理解するとの原告の主張は,採用できない。

2012年7月1日日曜日

審判請求時にした明細書に対する補正は補正目的要件(旧特許法第17条の2第4項)の対象ではないと判断された事例


知財高裁平成24年6月26日判決
平成23年(行ケ)第10299号 審決取消請求事件

1.概要
 現特許法17条の2第5項には、拒絶査定不服審判請求時等において特許請求の範囲について補正する場合は、所定の目的とする補正のみが許されるという要件(補正目的要件)が規定されている。同様の条文は旧特許法第17条の2第4項に対応する。
「5 前二項に規定するもののほか、第一項第一号、第三号及び第四号に掲げる場合(同項第一号に掲げる場合にあつては、拒絶理由通知と併せて第五十条の二の規定による通知を受けた場合に限る。)において特許請求の範囲についてする補正は、次に掲げる事項を目的とするものに限る。
 第三十六条第五項に規定する請求項の削除
 特許請求の範囲の減縮(第三十六条第五項の規定により請求項に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものであつて、その補正前の当該請求項に記載された発明とその補正後の当該請求項に記載される発明の産業上の利用分野及び解決しようとする課題が同一であるものに限る。)
 誤記の訂正
 明りようでない記載の釈明(拒絶理由通知に係る拒絶の理由に示す事項についてするものに限る。)」

 そして、特許法第53条には拒絶査定不服審判等において行った補正が補正目的要件を満たさない場合は補正は却下されると規定されている。

 上記の補正目的要件は「特許請求の範囲についてする補正」のみに適用されることは文言上あきらかである。
 本事例では、原告が審判請求時に明細書に対してのみ補正を行った。審判段階では、この補正が補正目的要件を満足しないと判断された。その補正が結果的に特許請求の範囲の解釈に影響を与えるものであるから、「実質的に特許請求の範囲についてする補正」であり、補正目的要件が課されるべきである、というのが被告(特許庁長官)の主張であった。
 裁判所は補正目的要件は条文の文言通り「特許請求の範囲についてする補正」のみに適用されることを明らかにした。被告の上記主張は根拠がないと判断した。

2.特許請求の範囲に記載された請求項1
「航空機のエンジンのパフォーマンスの記録を提供するためのシステムであって:
 前記航空機エンジンの動作に関係する航空機エンジンデータを収集するために前記航空機エンジンに取り付けられ,さらに無線通信信号を介して前記エンジンデータを送信するための送信機を有するエンジン監視モジュールであって前記航空機エンジンを追跡するための前記航空機エンジンのシリアル番号に結びつけられたデータアドレスを割り当てられているエンジン監視モジュールと,
 前記送信されたエンジンデータを受信するための受信機,
とを有することを特徴とするシステム。」

3.本件補正の内容
 原告は拒絶査定に対する不服審判請求時に明細書の段落0011に下線部を追加する補正(本件補正)を行った。
 「【0011】
 本発明のいま一つの側面では,エンジンデータを収集するためにFADEC/ECUが航空機エンジンとともに動作する。当該エンジン監視モジュールはエンジンデータを集めるために電気的にFADEC/EDUに接続される。好ましくは当該エンジン監視モジュールにデータアドレスが割り当てられ,該データアドレスは当該航空機エンジンを追跡する(track)ためのエンジンシリアル番号と結び付けられている。このデータアドレスは好ましくはインターネットアドレスを含んでいる。当該エンジン監視モジュールはまた,トランシーバの一部として,エンジン監視のために使われるさまざまなアルゴリズムを含むデータを機上処理のためにアップロードするための受信機をも含むことができる。」

4.審決での判断
 本件補正は,特許請求の範囲の減縮に当たらず,請求項の削除,誤記の訂正,明りょうでない記載の釈明を目的としたものでもないから,平成18年法律第55号改正附則3条1項の規定によりなお従前の例によるとされる同法による改正前の特許法(以下「旧特許法」という。)17条の2第4項の規定に違反するとして却下した。

5.裁判手続きにおける被告(特許庁長官)の主張
「本件補正は,本願発明の「追跡する」との用語の意味を明確化するためにした補正であり,実質的に特許請求の範囲についてする補正である。また,本件補正は,不明りょうな記載の釈明を目的とする補正であるとしても,拒絶理由通知に係る拒絶の理由に示す事項についてするものではない。さらに,本件補正は,請求項の削除,特許請求の範囲の減縮,誤記の訂正のいずれを目的とするものでもない。
 したがって,旧特許法17の2第4項の規定に違反するとして,本件補正を却下した審決の判断に誤りはない。」

6.裁判所の判断のポイント
「審決は,本件補正は,特許請求の範囲の減縮に当たらない上,請求項の削除,誤記の訂正,明りょうでない記載の釈明を目的としたものではないから,旧特許法17条の2第4項1号ないし4号のいずれにも該当しないとして,これを却下した。
 しかし,審決の上記判断には誤りがある。すなわち,旧特許法17条の2第4項は,特許請求の範囲についてする補正に係る規定であるところ,本件補正は,前記第2の3記載のとおり,明細書の段落【0011】の「追跡する」の後に,英語で追跡を意味する語である「track」を付け加えるものであって,特許請求の範囲についてする補正に当たらない。これに対し,被告は,本件補正は,実質的に特許請求の範囲についてする補正であり,旧特許法17条の2第4項が適用される旨主張するが,明細書の記載に係る補正に同条同項の適用があると解することはできず,主張自体失当である。
 したがって,審決の本件補正却下の判断には誤りがある。」