2012年6月24日日曜日

引用発明に周知技術の構成を組み合わせることが容易ではないと判断された事例


知財高裁平成24年6月6日判決
平成23年(行ケ)第10284号 審決取消請求事件

1.概要
 本件では、本件発明が進歩性なしと判断した無効審判審決が審決取消訴訟において取り消された。
 本件発明1と主たる引用発明との相違点(攪拌方式)は、甲第2号証および甲第3号証に開示された「周知技術」である。
 審決では、引用発明の攪拌方式に替えて周知の攪拌方式を採用することにより本件発明1に至ることは当業者にとり容易であると判断した。
 裁判所は、相違点に係る本件発明1の攪拌方式が周知であることは認めた。しかしながら、引用発明1に、甲第2号証および甲第3号証の開示事項を組み合わせることが容易であるか否かを具体的に検討した結果、組み合わせることが容易ではない、と判断した。
 審決では、引用発明1に、甲第2号証および甲第3号証の開示事項を組み合わせることがなぜ容易であるのかの具体的な検証は行われておらず、単に「周知技術だから組み合わせは容易である」と判断している。このような安易な判断が違法とされた。
 同様の判断は知財高裁平成24年1月31日判決平成23年(行ケ)第10121号 審決取消請求事件(本ブログ2012年2月12日記事参照)等にも見られる。こちらの事例では、副引用発明が「周知技術」であるからといって特許庁側の立証負担が軽減されるわけではないと判示されており興味深い。

2.本件発明1、引用発明、一致点と相違点
請求項1の発明(本件発明1)
「有機質廃物を経時的に投入堆積発酵処理する長尺広幅の面域の長さ方向の1側に長尺壁を設け,その他側は長尺壁のない長尺開放側面として成る大容積のオープン式発酵槽を構成すると共に,該長尺壁の上端面にレールを敷設し,該レールを回転走行する車輪と該長尺開放側面側の床面上を該長尺開放側面に沿い回転走行する車輪とを配設されて具備すると共に該オープン式発酵槽の長尺広幅の面域の幅方向に延びる回転軸の全長に亘り且つその周面に多数本のパドルを配設して成り,且つ堆積物を往復動撹拌する正,逆回転自在のロータリー式撹拌機を具備した台車を該オープン式発酵槽の長さ方向に往復動走行自在に設けると共に該オープン式発酵槽に対し,該長尺開放側面を介してその長さ方向の所望の個所から被処理物の投入堆積と発酵済みの堆肥の取り出しを行うようにしたことを特徴とするオープン式発酵処理装置。」

主引用刊行物に記載された発明(引用発明)
「有機性廃棄物を,発酵槽内に供給堆積して切返し撹拌することで,一定期間貯蔵して発酵させて堆肥化する発酵槽であって,
 発酵槽は二つの側壁と一つの端壁により三方を囲まれており,該発酵槽を挟んで端壁側とその向かい側に平行に走行レールがあって端壁側の走行レールは端壁上に敷設されており,
 走行レール間には,回転パドルを垂下する撹拌機を横行可能に備えた走行梁が,走行レールに沿って回転走行する車輪が設けられて走行可能にわたされており,
 発酵槽のブロック毎に有機質廃棄物の供給と堆肥の取り出しを自由におこない,滞留日数を独立に設定するようにした発酵槽。」

引用発明と本件発明1の一致点
「有機質廃物を経時的に投入堆積発酵処理する長尺広幅の面域の長さ方向の1側に長尺壁を設け,その他側は長尺壁のない長尺開放側面として成る大容積のオープン式発酵槽を構成すると共に,該長尺壁の上端面にレールを敷設し,該レール上を回転走行する車輪と該長尺開放側面側の床面上を該長尺開放側面に沿い回転走行する車輪とを配設されて具備する撹拌機を具備し,該オープン式発酵槽に対し,該長尺開放側面を介してその長さ方向の所望の個所から被処理物の投入堆積と発酵済みの堆肥の取り出しを行うようにしたことを特徴とするオープン式発酵処理装置。」

引用発明と本件発明1の相違点
 本件発明1の撹拌機が「オープン式発酵槽の長尺広幅の面域の幅方向に延びる回転軸の全長に亘り且つその周面に多数本のパドルを配設して成り,且つ堆積物を往復動撹拌する正,逆回転自在のロータリー式撹拌機を具備した台車を該オープン式発酵槽の長さ方向に往復動走行自在に設ける」ものであるのに対し,引用発明における撹拌機は,そのような特徴を有さない点。

3.審決における、引用発明と本件発明1の相違点に係る構成の容易想到性に係る判断
家畜糞等の有機質廃物の発酵処理装置であって,発酵槽の幅方向に伸びて正逆回転可能な回転軸の全長にわたって多数本のパドルを有する攪拌機を,台車により発酵槽の長手方向に往復走行可能なようにした撹拌装置は,本件発明1の出願前に周知のものである。
・・・
したがって,引用発明において採用する撹拌方式に替え,上記周知の撹拌方式を採用することで本件発明1における発明特定事項に想到することは,当業者であれば容易になしうるところである。

4.裁判所の判断のポイント
「したがって,本件出願当時,発酵槽の長尺方向の側壁ないし縁部にレールや溝を設けたり,あるいはレール等を設けずに単に走行路を設定して,発酵槽の上方を跨ぐような構造を有する台車がこの走行路を車輪で往復走行できるようにし,かつこの台車に,回転軸に撹拌のためのパドル等が取り付けられており,正回転,逆回転による回転動作(撹拌動作)が自在な撹拌機を搭載する程度までのことは,当業者の周知技術にすぎなかったということができる。そして,甲第2,第3号証に記載されたかかる周知技術と引用発明はその技術分野が共通であり,甲第2,第3号証に記載された発酵槽(処理槽,堆積槽)が,引用発明の発酵槽と同様に,内部を隔壁で物理的に区切らない単一槽であることまでは是認できる。
 しかしながら,甲第2号証には・・・台車を所望の位置に動かして,所望の範囲(領域)で撹拌動作を指定した頻度(回数)で行うことで,領域ごとに被処理物の滞留日数及び撹拌頻度を管理することは記載されていない。また,甲第3号証にも・・・台車を所望の位置に動かして,所望の範囲(領域)で撹拌動作を指定した頻度(回数)で行うことで,領域ごとに被処理物の滞留日数及び撹拌頻度を管理することは記載されていない。
 他方,前記のとおり,引用発明が解決しようとする課題は,発酵槽内を複数の領域に概念的,論理的に区切り,領域ごとに被処理物の滞留日数及び撹拌頻度を管理する点にあり(甲1の2頁左下欄10~16行),引用発明の撹拌機も,下記第1図のとおり,発酵槽(1)内からいったん移動通路(15)上に移動させた後,移動通路上を発酵槽の長尺方向に沿って他の領域の前(開口部側)まで移動させ,再度発酵槽内に移動させることによって,上記の領域ごとの被処理物の撹拌頻度の管理を可能にするものである。
 したがって,引用発明においては,撹拌機の構成と移動通路とは機能的に結び付いているものである。
 そうすると,引用発明の発酵処理装置の構成から移動通路(15)を省略し,かつ奥行き方向に往復して撹拌する撹拌機の構成を長尺方向にのみ往復移動しながら撹拌動作する甲第2,第3号証から認められる周知技術に係る撹拌機の構成に改め,同時に概念的,論理的に複数に区切られた発酵槽内の領域を,発酵槽開口部の所望の個所から被処理物の投入・堆積・取出しを行うことができるようにするべく,領域ごとに被処理物の滞留日数及び撹拌頻度を管理することができるようにすることは,甲第2,第3号証に表れる構成が当業者に周知のものであるとしても,本件出願当時,当業者において容易ではあったと認めることはできない。したがって,これと異なる「引用発明において採用する撹拌方式に替え,上記周知の撹拌方式を採用することで本件発明1における発明特定事項に想到することは,当業者であれば容易になしうるところである。」との審決の判断は誤りである。」

2012年6月21日木曜日

クレーム中の数値範囲の下限のみが規定されている場合の実施可能性が争われた事例


知財高裁平成24年6月13日判決
平成23年(行ケ)第10364号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は拒絶査定不服審判において実施可能性要件、サポート要件違反と判断されたものの、知財高裁にて審決が取り消された事例である。
 本願発明1は「モータ・ハウジングのポリマー材料が,該モータ・ハウジングに沿って流れるポンプ流体への該固定子からの熱の放散を容易にするために,熱伝導性で電気絶縁性の充填剤を少なくとも40重量%の量で含有する」という特徴を含む。
 裁判において被告(特許庁長官)は、上記の規定では、上限が規定されていないことから「100重量%近くの場合も含まれるところ,このような場合には,充填剤が40重量%であるマトリックス材料とはその材料構成が著しく異なり,当業者は,モータ・ハウジングをどのようにして形成するのかを容易に実施し得ない」と指摘した。
 これに対して裁判所は、本願発明の「モータ・ハウジング」は「流体によって冷却される,比出力が高い電動モータ」として使用可能な程度に強度等を備えていることは当然の前提であり、被告の前提(100重量%近くも含む)は不合理である、と判断し、実施可能要件違反にはあたらないと判断した。

2.本願発明1
【請求項1】ポリマー材料で作製されて固定子を含むモータ・ハウジングを備えた流体冷却式電動モータであって,モータ・ハウジングの長さが当該モータ・ハウジングの外径の少なくとも2倍であり,該電動モータ・ハウジングの外表面に沿ってポンプ流体を流すポンプ部分を駆動し,/モータ・ハウジングのポリマー材料が,該モータ・ハウジングに沿って流れるポンプ流体への該固定子からの熱の放散を容易にするために,熱伝導性で電気絶縁性の充填剤を少なくとも40重量%の量で含有することを特徴とする電動モータ

3.審決の要点
 審決では本願発明が実施可能要件(特許法36条4項)およびサポート要件(同条6項2号)に違反すると判断した。具体的な理由のひとつは以下の通り。
「本願明細書【0007】に「熱伝導性を著しく増大させるために,充填剤の量は,少なくとも40重量%であるべきである。」と記載されているが,少なくとも熱伝導性の程度が明らかにされていない充填剤をポリマーに40重量%混合すると,なぜ,熱伝導性が著しく増大するのかその根拠が不明である(臨界的な効果があるのか,又は,充填剤の量を大きくすると問題が起きるのか等を明瞭にされたい。)」

4.被告(特許庁長官)の主張
 上記点に関する裁判段階での被告の主張は以下の通り。
本願明細書【0007】の記載部分についてみると,マトリックス材料に対する充填剤の充填料は,40重量%以上であることのみ特定されているから,100重量%近くの場合も含まれるところ,このような場合には,充填剤が40重量%であるマトリックス材料とはその材料構成が著しく異なり,当業者は,モータ・ハウジングをどのようにして形成するのかを容易に実施し得ない。
 また,マトリックス材料であるポリマー材料は,「液体エポキシ樹脂」が,充填剤は,「Al細粉」が,それぞれ例として挙げられているが(本願明細書【0020】),エポキシ樹脂には様々のものがあり,その物性も異なるばかりか,Al細粉の熱伝導性も,一義的に決まらないから,これらのポリマー材料に40重量%の充填剤を混合しても,全てのものの熱伝導性が著しく増大するとは推認できず,また,本願明細書及び図面にも,このことを裏付ける記載や示唆はなく,しかも,「液体エポキシ樹脂」や「Al細粉」について,当業者が実施できる程度に具体化されたものも,記載や示唆がない。
 特に,ポリマー材料よりも熱伝導性の高い充填剤を混合する場合,充填剤の混合比率の増大に比例してその熱伝導率が増大すると考えるのが技術的に自然であり,特定の混合比率において熱伝導率が急変するとは推認し難いところ,本願明細書には,40重量%で熱伝導率が著しく増大する理由について何らの記載も示唆もない。
 よって,本願明細書では,充填剤の量を40重量%とすることで熱伝導率が著しく増大する理由が不明であるから,当業者が容易に実施できる程度に明確かつ十分に記載されているとはいえない。」

5.裁判所の判断のポイント
「3 本願明細書【0007】の記載部分について
(1) 原告は,本件審決が引用する本件拒絶理由が根拠不明であると指摘する本願明細書【0007】(前記1(2)オ)の「熱伝導性を著しく増大させるために,充填剤の量は,少なくとも40重量%であるべきである。」との記載部分が明瞭であって,法36条4項の規定に違反しない旨を主張する。
(2) そこで検討すると,前記2(2)に認定のとおり,本願明細書の記載によれば,本願発明及び本願明細書における「ポリマー材料」は,市販品として入手可能なデュロマーと充填剤(少なくとも40重量%)とを混合し,射出成形やドレンチングなどによって形成したものであるところ,当業者は,本願明細書の記載及び本件出願日当時の技術常識に基づき,当該製造方法により上記「ポリマー材料」を製造し,もって本願発明を実施することができたものと優に認められる。
 したがって,前記(1)に引用の本願明細書【0007】の記載部分が意味するところは,明瞭であって,本願明細書は,当該記載部分が存在することによって,法36条4項に違反するというものではない。
(3) 以上に対して,被告は,本願発明の構成では充填剤の充填量が100重量%近くの場合も含まれる結果,モータ・ハウジングをどのようにして形成するのかを当業者が容易に実施し得ない旨を主張する。
 しかしながら,本願明細書の記載(前記1(2)キ。【0012】~【0015】)及び図1によれば,本願発明の「モータ・ハウジング」は,ポンプ及び電動マイクロモータ等を備える構造的な部材であることが明らかであって「流体によって冷却される,比出力が高い電動モータ」として使用可能な程度に強度等を備えていることは,当然の前提であるというべきであって,モータ・ハウジングを構成する「ポリマー材料」について,充填剤が100重量%近くとなり,主たる成分であるデュロマーをほとんど含まない材料を使用することは,それ自体,想定することが不合理な前提である。
 したがって,被告の上記主張は,それ自体不合理なものとして採用できない。
 また,被告は,本願発明の「ポリマー材料」となるデュロマー(液体エポキシ樹脂)の物性や充填剤(Alの細粉)の熱伝導性が一義的に決まらないから,本願発明の作用効果が推認できず,デュロマーが40重量%以上含有されることで熱伝導率が著しく増大する理由(臨界性)が不明であるばかりか,液体エポキシ樹脂やAlの細粉も当業者が実施できる程度に具体化されていない旨を主張する。しかしながら,作用効果の有無や,デュロマーの重量比が有する技術的意義は,いずれも本願発明の容易相当性の判断において考慮され得る要素の一つであるにすぎず,実施可能性とは直接関係がないばかりか,上記の液体エポキシ樹脂及びAlの細粉の材料は,いずれも市販品として容易に入手可能である(甲21,22)から,これらの材料の詳細が本願明細書に示されていないからといって,当業者が本願発明を実施できなくなるものではない。

2012年6月12日火曜日

拒絶査定不服審判請求書を却下する前に審判長が審判請求人に対して意思確認をしなかったことの違法性が争われ、違法性はないと判断された事例

知財高裁平成24年6月6日判決
平成24年(行ケ)第10061号 審判請求書却下決定取消請求事件

1.概要
 拒絶査定不服審判を請求する際に「請求の理由」を具体的に記載する時間がない場合、審判請求書(および場合により請求項を補正する手続補正書)のみを期限内に提出することがある。この場合、審判長は請求人に対し相当の期間を指定して、請求書について補正すべきことを命じなければならず(特許法133条1項)、請求人が当該補正命令により指定した期間内(通常は30日)に請求書の補正をしないときは、決定をもってその補正書を却下することができる。
 審判請求書の補正命令の応答期間内に請求書の補正をしない場合には、請求人に特許庁から電話で問い合わせがあり、審判を継続する意思の確認と、請求書を却下してよいかの確認が行われることが通常である。ただし、この運用は法律上担保されたものではない。
 本件事例では、審判請求人が、補正命令応答期間内に、審判請求の理由を記載するのに必要な実験データ等の入手等に手間取っているため審判請求の理由が記載できないこと、数ヶ月の猶予を与えてほしいことを示した上申書を提出した。
 審判長は補正命令応答期間後に請求人の意思を確認することなく審判請求書を却下した。
 裁判において原告(審判請求人)は上記取り扱いが通常の運用と異なっており違法である旨主張した。
 裁判所は審判請求書の却下に違法性はないと判断した。却下するか否かは審判長の裁量権の範囲内であり、上申書において原告は具体的な事情を説明していないこと等の事情を考えると違法と評価される理由はない、というのが裁判所の判断であった。

2.裁判所の判断のポイント
「1.認定事実
・・・
(1) 原告は,平成17年6月16日,発明の名称を「てんかんおよび関連疾患を治療するためのスルファメートおよびスルファミド誘導体」とする特許を出願したが(特願2007-516789。甲1の1),平成23年2月21日付けで,次の理由により本件拒絶査定を受けた(甲1の2)。
(2) 原告は,平成23年7月4日,本件事務所を代理人として,本件拒絶査定に対して本件審判を請求したが,その際,本件請求書の請求の理由欄には,「詳細な理由は追って補充する。」とのみ記載した(甲1の3)。
(3) 特許庁は,本件請求書を受理してこれに不服2011-14228号との事件番号を付し,特許庁長官により指定された本件審判長は,平成23年7月19日,特許法133条1項に基づき,本件事務所に対して本件指令書を発送したが,そこには次の記載があった(甲1の4)。
「この審判請求手続について,方式上の不備がありますので,この指令の発送の日から30日以内に,下記事項を補正した手続補正書(方式)を提出しなければなりません。
 上記期間内に手続の補正をしないときは,特許法第133条第3項の規定により審判請求書を却下することになります。

1.審判請求書の【請求の理由】の欄。
(注)請求の理由が正確に記載されていません。」
(4) 本件事務所は,平成23年8月18日,特許庁長官に対して本件上申書を提出したが,そこには,「上申の内容」として次の記載があった(甲1の5)。
本件請求人は,当該請求の理由を記載するのに必要な実験データ等の入手等に手間取っているので,上記指定期間内には十分な請求の理由を記載できないと連絡して参りました。したがって,上記書面の提出期間について数ヶ月のご猶予を与えて戴きたく,ここに上申いたします。
(5) 特許庁内部では,「審判事務機械処理便覧」という文書により,特許出願に対する拒絶査定不服審判請求について補正命令(特許法133条1項)を発した後,請求人からこれに対する応答がなかった場合,このことを確認した事務担当者は,審判長名の却下決定の文案を作成するが,これについて審判長による決裁(決定)を受ける前に,却下処分前通知書の発送を確認することとされているほか,却下処分前通知に先立って請求人からの上申書等が存在した場合には,却下処分前通知の発送を留保することとされている(甲12)。また,特許庁においては,特許出願に対する拒絶査定不服審判請求について補正命令(特許法133条1項)を発する場合,手続補正のための相当の期間として30日を指定する運用が行われているが,請求人から当該指定期間内に補正についての期間の猶予を求める上申書が提出された場合,審判長は,当該指定期間を経過しても直ちに請求書を却下する決定をするとは限らず,あるいはそのような上申書が提出されなくても,特許庁からの郵便はがきによる却下処分前通知又は電話による手続続行の意思の有無の確認を経てから,請求書を却下する決定をする運用が行われている(甲2~6,8,9)。
(6) しかるところ,本件審判の担当審判書記官は,原告又は本件事務所に対して,手続補正書が提出されていない旨の通知(却下処分前通知)を郵送し,あるいは電話で手続続行の意思の有無を確認するなどしなかった。そして,本件審判長は,平成23年9月30日,特許法133条3項に基づき,本件請求書を却下する決定をし(本件決定),その謄本は,同年10月24日,本件事務所に送達された(甲1の6,甲11,乙1)。
 決定書に記載された本件決定の理由は,次のとおりである。
「本件審判請求書には理由が無いから,審判長は期間を指定してその補正を命じた。しかし,審判請求人は指定された期間内にこれを補正しないので特許法第133条3項の規定により,本件審判請求書を却下すべきものとする。よって,結論のとおり決定する。」

2 本件決定の違法性について
(1) 特許法133条3項に基づく請求書の却下決定に関する裁量について特許出願について拒絶をすべき旨の査定を受けた者は,その査定に不服があるときは,拒絶査定不服審判を請求することで特許査定又は拒絶査定の取消しを求めることができ(特許法121条1項,159条3項,51条,160条1項),その際,請求の理由等を記載した請求書を特許庁長官に提出しなければならない(同法131条1項3号)ところ,審判長は,請求書がこの規定に違反しているときは,請求人に対し,相当の期間を指定して,請求書について補正をすべきことを命じなければならず(同法133条1項),請求人が当該補正命令により指定した期間内に請求書の補正をしないときは,決定をもってその請求書を却下することができるとされている(同条3項)。そして,特許法は,審判長が上記決定をすべき時期については何ら規定していないところ,上記補正命令に基づく補正が上記相当の期間内にされない以上,あえて当該決定を遷延させることについて積極的な意義は見出し難い一方で,当該補正が当該相当の期間経過後にされた場合,当該補正を却下して請求書を却下する決定をしなければならない理由も見当たらない。したがって,審判長は,請求書を却下する決定の要件が充足したとしても,直ちに当該決定をしなければならないものではないというべきである。
 以上によれば,審判長は,特許法131条1項に違反する請求書について,同法133条1項に基づく補正命令により指定した相当の期間内に補正がされなかった場合,いかなる時期に同条3項に基づく当該請求書を却下する決定をするかについての裁量権を有しており,当該決定は,具体的事情に照らしてその裁量権の逸脱又は濫用があった場合に限り,違法と評価されるというべきである。
(2) 本件決定の時期と裁量権の逸脱又は濫用の有無について
ア これを本件についてみると,原告は,前記1(1)に認定のとおり,平成23年2月21日付けで,本件出願に係る明細書に実験データ等が記載されていないことなどから,本件出願に係る発明が引用文献に記載の発明に基づいて容易に発明をすることができたことを理由とする本件拒絶査定を受けており,この時点で,当該実験データ等の入手が本件出願に係る発明について特許査定を受ける上で重要であり,拒絶査定不服審判を請求した場合の争点となることを認識していたものと認められる。
 原告代理人である本件事務所は,前記1(2)に認定のとおり,本件拒絶査定から約4か月を経過した平成23年7月4日,本件審判を請求したが,本件請求書の請求の理由欄には,「詳細な理由は追って補充する。」と記載するにとどまっているから,本件請求書は,請求の理由の記載がないものとして特許法131条1項3号に違反するものというほかない。
 これに対して,本件審判長は,前記1(3)に認定のとおり,平成23年7月19日,本件指令書を発送し,その発送から30日以内に本件請求書の請求の理由を補正するよう命令したが,本件事務所は,前記1(4)に認定のとおり,本件指令書が指定した期間の末日であり,本件拒絶査定から約6か月を経過した同年8月18日に至って,「実験データ等の入手等に手間取っている」ことを理由として,手続補正書の提出期間について数か月の猶予を求める旨を記載した本件上申書を提出するにとどまり,それ以上に,いかなる実験データ等をどのように入手するのかや,いかなる事情が理由となって当該実験データ等の入手等に更に数か月の時間を要するのかについて,何ら具体的な説明をしていないし,上記以外に本件請求書の請求の理由の補正について更なる期間の猶予を求める理由も説明していない。
イ 他方,特許庁内部では,前記1(5)に認定のとおり,「審判事務機械処理便覧」という文書により,特許法133条3項に基づく請求書の却下決定に先立って,請求人からの上申書等の有無や却下処分前通知書の発送を確認することとされているほか,請求人から,同条1項に基づく指定期間内に手続補正についての期間の猶予を求める上申書が提出された場合,審判長は,当該指定期間を経過しても直ちに請求書を却下する決定をするとは限らず,あるいはそのような上申書が提出されなくても,特許庁からの郵便はがきによる却下処分前通知又は電話による手続続行の意思の有無の確認を経てから,請求書を却下する決定をする運用が行われている。
 しかしながら,上記「審判事務機械処理便覧」という文書は,あくまでも事務担当者の便益のために特許庁内部における事務処理の運用を書面化したものであるにすぎず,特許法の委任を受けて請求人との関係を規律するものではないし,特許庁内部におけるその余の上記運用も,いずれも特許法に根拠を有する手続ではなく,実務上の運用として行われているにすぎないから,このような運用に従わない取扱いがされたからといって,そのことは,原則として当不当の問題を生ずるにとどまり,直ちに請求書の却下決定に関する時期についての裁量権の逸脱又は濫用となるものではない。
 そして,前記1(6)に認定のとおり,本件審判の担当審判書記官が,原告又は本件事務所に対し,手続補正書が提出されていない旨の通知(却下処分前通知)を郵送し,あるいは電話で手続続行の意思の有無を確認するなどしなかったことは,それ自体,拙速の感を免れず,上記「審判事務機械処理便覧」という文書の記載及び特許庁内部におけるその余の上記運用との関係では相当性を欠くことが明らかであったというほかない。しかしながら,本件決定に先立ってこれらの運用を経ていないとしても,前記アに認定の事実に照らせば,特許庁のそのような対応とは別に,原告は,補正に必要な実験データを入手し得る時期,その入手等に要する具体的な時間及びその時点において更に期間の猶予を求める必要があるのであればその理由を,いずれも進んで説明すべきであったというべきであって,特許庁から確認などを求められることがなかったからといって,その確認などを求められるまで補正を命じられた期間を徒過し得るわけではなく,そのことは,本件決定がその時期についての裁量権を逸脱又は濫用したとするに足りるものではない
ウ 以上によれば,原告は,本件拒絶査定により本件審判における争点を認識しており,当該争点についての立証について,本件審判の請求まで約4か月,本件指令書により指定された補正のための指定期間の満了まで約6か月にわたる準備期間を与えられていながら,その立証準備の状況等について何ら具体的に説明をせずに当該指定期間を徒過していたのであるから,原告が外国法人であって,本件事務所との間の意思疎通について内国人よりも時間と費用を要することや,本件決定に先立って,郵便はがきによる却下処分前通知又は電話による手続続行の意思の有無の確認といった特許庁内部で行われていた運用に従った取扱いがされていなかったこと,そして,そのことから,仮に,本件事務所において自ら補正の理由書を提出するまで本件請求書が却下されることはないと期待していたとすれば,本件審判長がその期待を与えたことを考慮しても,本件審判長は,本件請求書を却下した時点において,当該決定を遷延させ,もって原告のために更に補正のための猶予期間を与える必要はなかったものというほかなく,本件拒絶査定から約7か月後であって当該指定期間の満了から43日後にされた本件決定は,審判長が有する請求書の却下決定をする時期についての裁量権を逸脱又は濫用したものとはいえない。」

2012年6月4日月曜日

進歩性主張のための追加実験データが参酌された事例

知財高裁平成24年5月28日判決
平成22年(行ケ)第10203号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例では、拒絶査定不服審判審決における進歩性無しという判断が、知財高裁により覆された。
 本願発明は腫瘍の抑制効果を有するベクターを対象とする。明細書にはこの効果がある旨記載されているが、それを確認した実験結果が数値に基づいて具体的には開示されていない。
 原告(出願人)は引用発明に対する有利な効果を証明するために、実験成績証明書等を追加提出した。
 審決は明細書の開示は単なる願望の表明に過ぎず、追加データを参酌する余地なしと判断した。
 一方知財高裁は、明細書には「曲りなりにも実験結果が記載されている」、「架空の実験を記載したものと断定することはできない」、「必要な実験をしなかったとする被告の主張は憶測の域を出るものでな」い、等の理由から、明細書の効果が確かに達成されることを示す証拠として追加実験データを参酌し、審決が違法であると判断した。明細書に開示してある効果は、たとえ具体的な数字が記載されていなくとも原則真実と推定し、記載された効果を裏付ける実験結果は進歩性肯定の資料として参酌しましょう、という判断が下されたと理解できる。

2.本願発明1
「細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結されたH19 調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する,腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクターであって,前記腫瘍細胞が膀胱癌細胞または膀胱癌である,前記ベクター。」

3.引用発明との一致点、相違点
 審決が認定した引用発明1との一致点および相違点は以下の通り:
一致点
 「細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結された調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する,腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクター」である点。
相違点(i)
 該調節配列が,本願発明1は,’H19’の調節配列であるのに対し,引用発明1は,H19の調節配列ではない点
相違点(ii)
 該腫瘍細胞が,本願発明1は,膀胱癌細胞又は膀胱癌であるのに対し,引用発明1は,膀胱癌細胞又は膀胱癌と特定されていない点

 審決では、本願優先日前に、調節配列としてH19調節配列は公知であったことなどを理由として、引用発明1から本願発明に至ることは容易であると判断した。

4.実験データ
 出願時明細書段落0078には、本願発明の効果を裏付ける試験結果として以下の通り記載されている。
「対照及び実験群の間で,腫瘍のサイズ,数及び壊死を比較する。シュードモナス毒素の発現は,マウスの実験群からの膀胱腫瘍内のH19の発現と同時局在化することがわかる。さらに,マウスの実験群の膀胱腫瘍は,マウスの対照群内の膀胱腫瘍に比べてサイズ及び壊死が減少している。」

 この部分は「現在形」で書かれており、具体的な数値は含まれていない。
 原告(出願人)は、段落0078記載の効果を具体的に示した実験成績証明書や、優先日後に出願人も筆者となって公開された、実験データを載せた論文を追加提出し、本願発明が、優先日当時の技術常識からは予測できない有利な効果を有することの立証を試みた。

5.追加実験データを参酌すべきでないという被告(特許庁長官)の主張
「本願当初明細書の実施例である9節(段落【0077】,【0078】)では,膀胱腫瘍モデルマウスにおけるH19調節配列を使用した遺伝子療法の一般的な方法が記載されているにとどまり,マウスに実際に投与する際の具体的手法等について記載されていない。実験結果についても,「マウスの実験群内の膀胱腫瘍は,対照群内の膀胱腫瘍と比較し,腫瘍の大きさが減少し壊死する」という記載がなされているにとどまり,具体的な腫瘍の計測結果や壊死の状況は一切記載されておらず,実験結果を客観的に確認できない。そして,9節では,他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に,他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に,現在形で実験結果が記載されており,実際に実験が行われたか疑問である。原告が真に実験を行っていれば,容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって・・・本願明細書の作用効果の記載(段落【0078】)は,いわば願望を記載したものにすぎない。原告が参考文献として提出する文献がいずれも本件出願後のものであるのは,この証左である。かかる具体性を欠いた記載をもって発明の作用効果を開示したものとすることは,何らの実験による確認無しに,憶測のみで多数の可能性について特許出願し,出願後に確認を行い初めて効果があると判明した部分について,その後参考文献や実験成績証明書と称してデータを提出することにより特許権を取得することを許す結果となって,出願当初から十分な確認データを開示する第三者との間に著しい不均衡を生じ,先願主義の原則にも悖るし,発明の公開の代償として独占権を付与する特許制度の趣旨に反する。」

6.追加実験データの参酌に関する裁判所の判断のポイント
「本願明細書の段落【0078】には,化学的に膀胱腫瘍を発症させたマウスに対し,H19調節配列を使用した遺伝子療法を施した実施例につき,「対照及び実験群の間で,腫瘍のサイズ,数及び壊死を比較する。シュードモナス毒素の発現は,マウスの実験群からの膀胱腫瘍内のH19の発現と同時局在化することがわかる。さらに,マウスの実験群の膀胱腫瘍は,マウスの対照群内の膀胱腫瘍に比べてサイズ及び壊死が減少している。」との記載があり(なお,最後の1文は,「膀胱腫瘍のサイズが減少し,膀胱腫瘍が壊死している」の誤りであることが明らかである。),本願発明1のベクターによって,マウスを使用した膀胱腫瘍に対する実験で,対照群に対して膀胱腫瘍の大きさが有意に小さくなり,腫瘍細胞の壊死が見られた旨が明らかにされている。
 そして,上記に加えて,本願発明1の発明者らも執筆者として名を連ねている論文である「The Oncofetal H19 RNA in human cancer, from the bench to the patient」(Cancer Therapy3巻,2005年(平成17年)発行,審判での参考資料1,甲10)1ないし18頁には,H19遺伝子調節配列を用いたベクターの効果について,①膀胱癌(腫瘍)を発症させたマウスにジフテリア毒素を産生する遺伝子(DT-A)等を誘導するプロモーターを使用したベクターを投与したところ,対照のマウスに対して腫瘍の平均重量が40%少なかったこと,②ヒト膀胱癌(腫瘍)を発症させたヌードマウスにDT-Aを誘導するプロモーターを使用したベクター(DTA-H19)を投与したところ,投与しない対照のマウスが腫瘍の体積を2.5倍に拡大させたのに対し,腫瘍の増殖速度が顕著に小さく,広範囲の腫瘍細胞の壊死が見られたこと,③膀胱癌(腫瘍)を発症させたラットに上記ベクターDTA-H19を投与したところ,対照のラットに対して腫瘍の大きさの平均値が95%も小さかったこと,④難治性の表層性膀胱癌(腫瘍)を患っている2人の患者に経尿道的に上記ベクターDTA-H19を投与したところ,腫瘍の体積が75%縮小し,腫瘍細胞の壊死が見られ,その後14か月(1人については17か月)が経過しても移行上皮癌(TCC)が再発しなかったことが記載されている。また,原告が提出する参考資料である「1.1 Compassionate Use Human Clinical Studies」と題する書面(審判での参考資料2,甲11)及び本願発明1の発明者らも執筆者として名を連ねている論文「Plasmid-based gene therapy for human bladder cancer」(QIAGENNEWS 2005,審判での参考資料4,甲13)にも,上記④と概ね同様の効果に係る記載がある。
 本願明細書の段落【0078】には,具体的に数値等を盛り込んで作用効果が記載されているわけではないが,上記①,②は上記段落中の本願発明1の作用効果の記載の範囲内のものであることが明らかであり,甲第10号証の実験結果を本願明細書中の実験結果を補充するものとして参酌しても,先願主義との関係で第三者との間の公平を害することにはならないというべきである。
 そうすると,本願発明1には,引用例1,3ないし6からは当業者が予測し得ない格別有利な効果があるといい得るから,前記(1)の結論にもかんがみれば,本件優先日当時,当業者において容易に本願発明1を発明できたものであるとはいえず,本願発明1は進歩性を欠くものではない。」

「被告は,本願明細書の9節では,他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に,他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に,現在形で実験結果が記載されているし,原告が真に実験を行っていれば,乙第6号証のように容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって,作用効果の記載(段落【0078】)は,いわば願望を記載したものにすぎない旨を主張する。
 確かに,本願明細書(甲7)の他の実施例に係る8,10,11節中には「結果と考察」欄がある一方,9節には同欄がなく,9節では現在形で実験結果が記載されている。しかしながら,段落【0078】を含む9節には曲がりなりにも実験結果が記載されているのであって,記載中の項目立ての体裁や文章の時制が異なるからといって,架空の実験を記載したものと断定することはできない。また,本願発明1の発明者らも執筆者に名を連ねている論文「USE OF H19 REGULATORYSEQUENCES FOR TARGETED GENE THERAPY IN CANCER」(Int. J. Cancer98巻,2002年(平成14年)発行,乙6)645ないし650頁には,膀胱癌(腫瘍)を発症させたマウスにジフテリア毒素を産生する遺伝子(DT-A)等を誘導するプロモーターを使用したベクター(DTA-PBH19)を投与したところ,対照のマウスに対して腫瘍の平均重量が40%少なく,平均体積も40%小さかったことが記載されており,これは前記(2)の④の実験結果と同趣旨のものである(なお,甲第10号証は2002年に発表した実験結果を引用している。)。しかしながら,かかる論文が存在するからといって,本願発明1の発明者らが,本件優先日当時に本願発明1のベクターを用いた実験を行っておらず,乙第6号証記載の実験がされるまで必要な実験をしなかったとする被告の主張は,憶測の域を出るものではなく,これを採用することはできない。