2012年7月10日火曜日

明細書に薬理データが開示されていない場合に医薬用途発明出願が実施可能要件を満足しないと判断された事例


知財高裁平成24年6月28日判決言渡
平成23年(行ケ)第10179号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例は、医薬用途発明の実施可能要件について争われ、審決、裁判ともに実施家脳要件欠如と判断された事例である。
 明細書には医薬用途を具体的に裏付ける実験データなどが記載されていない。出願人は明細書中の記載と技術常識を勘案すればクレーム記載の治療作用が十分に裏付けられていると主張した。また、出願人は、出願後に刊行された文献(参考文献3および4)を意見書に添付して提出していた。
 裁判所は「本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して,当業者において,本願発明を実施できる程度に明確かつ十分な記載ないし開示があると評価できるか否かについて,検討」した。そして、実施可能要件を満たしていないという審決に誤りはないと判断した。出願後に刊行された文献の開示事項については少なくとも判決文においては言及されていない。

 知財高裁平成22年1月28日判決(平成21年(行ケ)第10033号審決取消請求事件)(フリバンセリン事件、本ブログ2010年2月13日記事)において裁判所は、「発明の詳細な説明に記載された技術的事項が確かであるか否か等に関する具体的な論証過程が開示されていない場合において,法36条4項1号所定の要件を充足しているか否かの判断をするに際しても,たとえ具体的な記載がなくとも,出願時において,当業者が,発明の解決課題,解決手段等技術的意義を理解し,発明を実施できるか否かにつき,一切の事情を総合考慮して,結論を導くべき筋合いである。」と判示した。今回の事例の「本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して」という文言からみて、今回の事例における実施可能要件充足性の判断は、フリバンセリン事件において示された「一切の事項を総合考慮して、結論を導く」という手法に沿ってなされた考えられる。なお、フリバンセリン事件の二回目の審決(不服2006-27319、本ブログ2012年3月16日記事)では、請求項1に係る医薬用途発明は実施可能性を満足せず、後発的に提出された薬理効果を証明するための試験結果は参酌することができない旨の判断が示された。この二回目の審決は2012年4月17日に確定している。

2.本願発明
【請求項1】加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。

3.審決の理由の要点
(1) hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用を裏付ける薬理データといえるものは,本願明細書の発明の詳細な説明には何ら記載されておらず,hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用に関し,その有用性を裏付ける薬理データと同視すべき程度の記載もない。
(2) 審判請求人(原告)は,平成18年10月24日付けの意見書において,添付した参考文献3及び4の記載をもとに,A4.6.1抗hVEGF抗体のアフィニティー成熟形態であるラニビズマブが加齢性黄斑変性の治療に有用であることが明らかになっている旨を主張する。しかし,参考文献3及び4は,いずれも本願優先日から10年以上経過した2006年に発行されたものであるとともに,具体的に試験を行った時期が,いずれも本願出願よりも後であって,本願出願時にこれらの事実が明らかにされていたと解することができず,本願発明において,hVEGF拮抗剤についてその医薬用途の有用性を裏付ける薬理データと同視すべき程度の記載の有無の検討に際し参酌することができない。

4.裁判所の判断のポイント
(1) 本願発明の特許請求の範囲の記載(請求項1)は,「加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。」である。他方,本願明細書には,hVEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性に対し治療効果を有することを直接的に示す実施例等に基づく説明は一切存在しない(当事者間に争いがない)。
 そこで,旧特許法36条4項の要件充足性の有無,すなわち,本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合して,当業者において,本願発明を実施できる程度に明確かつ十分な記載ないし開示があると評価できるか否かについて,検討する。
本願明細書には,年齢に関連する黄班変性(AMD) の滲出形態が,脈絡膜新血管新生及び網膜色素上皮細胞剥離に特徴づけられること,脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本願発明のVEGF拮抗剤は,AMDの重篤性の緩和において特に有用であると思われること(上記1(2) )が記載され,また,hVEGF拮抗剤の1種である抗hVEGFモノクローナル抗体が,血管内皮細胞の増殖活性を阻害し,腫瘍成長を阻害し,血管内皮細胞走行性を阻害することについての試験結果が示されている(同ク,ケ,サ)。
ところで,甲9は,本願の優先権主張日前の平成7年1月に公表された文献であって,血管新生のメカニズムや細胞増殖因子との関係等についての概要が説明されている(上記1(3) )。同文献には,病的状態に関連する血管新生は,「重症糖尿病網膜症,未熟児網膜症,尋常性乾鮮等の病的状態を作り出す血管新生」,「悪性腫瘍における血管新生のように,病的状態の進行に関与する血管新生」,及び「病的状態からの回復期に認められる血管新生」の3つのカテゴリーに分類して論じられること(同イ),血管新生は様々な物質によって調節されているが,血管新生を促進する重要な因子として,①VEGFばかりでなく,②FGF及び③HGF等のポリペプチドが存在すること,また,VEGFはその発現が細胞の虚血によって制御されており,動脈が閉塞し,あるいは癌細胞が急速に増殖して組織の酸素分圧が低下した場合にVEGFが分泌され,血管新生を引き起こすこと(同オ),さらに,血管新生のメカニズムは解明されつつあるが,どのような病態でどの増殖因子が血管新生にかかわっているのかについては不明な点が多いこと(同カ)が記載され,同記載内容は,本願の優先権主張日である平成7年3月30日当時には技術常識となっていたといえる。
 加齢性黄斑変性の原因である脈絡膜での血管新生は,甲9記載の病的状態を作り出す血管新生のカテゴリーに属するものであるが,上記のとおり,甲9には,血管新生を促進する因子としては,FGFのみではなくVEGFやHGFが知られていたこと,血管新生のメカニズムは解明されつつあるものの,どのような病態でどの増殖因子が血管新生に関与しているかは不明な点が多い点が記載されている。
 上記の記載に照らすならば,脈絡膜での血管新生がVEGFにより促進されるとの事項は,本願の優先権主張日当時に知られていたとはいえず,また,同事項が技術常識として確立していたともいえない。すなわち,甲9では,VEGFが血管新生を促進する因子であることは示されているものの,血管新生にVEGFのみが関与している点は明らかでなく,結局,どの増殖因子が原因であるかは不明であることから,甲9から,hVEGF拮抗剤でVEGFの作用を抑制しさえすれば,脈絡膜における血管新生が抑制できることを合理的に理解することはできない。
 以上に照らすならば,本願発明(「加齢性黄斑変性の治療のための医薬の調製におけるhVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤の使用。」)の内容が,本願明細書における実施例その他の説明により,「hVEGF(ヒト血管内皮増殖因子)拮抗剤」を使用することによって,加齢性黄斑変性に対する治療効果があることを,実施例等その他合理的な根拠に基づいた説明がされることが必要となる。
 しかし,前記のとおり,本願明細書には,hVEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性に対し治療効果を有することを示した実施例等に基づく説明等は一切存在しないから,本願明細書の記載が,本願発明を当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されたものということができない。
 したがって,旧特許法36条4項に規定する要件を満たしていないと判断した審決に誤りはない。
(2) これに対し,原告は,本願明細書には,hVEGF拮抗剤の加齢性黄斑変性に対する治療作用を裏付ける程度の記載がされていると主張する。しかし,原告の同主張は,以下のとおり採用できない。すなわち,
原告は,本願明細書には,加齢性黄斑変性が脈絡膜新血管新生によって特徴づけられることが明確に記載され,「脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本発明のVEGF拮抗剤は,AMD の重篤性の緩和において特に有用であると思われる」などと記載されていることから,当業者であれば,hVEGF拮抗剤が脈絡膜の血管新生を阻害することによって加齢性黄斑変性の治療に使用できることが理解できる旨を主張する。
 しかし,原告の主張は,以下のとおり失当である。
 前記のとおり,脈絡膜における血管新生にVEGFが関与していることは,本願の優先権主張日当時における技術常識として確立した事項ではなく,また,本願明細書には,この点を明らかにする試験結果等は何ら示されていない(上記(1) )。
 この点,本願明細書には,脈絡膜の血管新生によって特徴付けられる加齢性黄斑変性の重篤性の緩和においてVEGF拮抗剤が特に有用であると思われるとの記載がある。しかし,同記載は,本件特許の出願時に知られていた血管新生を促進する3種の因子の1つであるVEGFの拮抗剤を,加齢性黄斑変性の治療に利用する可能性があるということを超えては,意味を有しない。前記のとおり,本願明細書の記載及び本願の優先権主張日当時の技術常識を総合しても,脈絡膜における血管新生にVEGFが関与していることが何らの説明もされていない以上,同記載部分をもって,VEGF拮抗剤が加齢性黄斑変性の治療に有効であり,当業者が実施できる程度に明確かつ十分な記載であると解することはできない。
 したがって,本願明細書の「脈絡膜新血管新生は予後の劇的な悪化を伴うので,本発明のVEGF拮抗剤は,AMD の重篤性の緩和において特に有用であると思われる」との記載部分により,当業者であれば,hVEGF拮抗剤が脈絡膜の血管新生を阻害することによって加齢性黄斑変性の治療に使用できると理解するとの原告の主張は,採用できない。