2012年6月4日月曜日

進歩性主張のための追加実験データが参酌された事例

知財高裁平成24年5月28日判決
平成22年(行ケ)第10203号 審決取消請求事件

1.概要
 本事例では、拒絶査定不服審判審決における進歩性無しという判断が、知財高裁により覆された。
 本願発明は腫瘍の抑制効果を有するベクターを対象とする。明細書にはこの効果がある旨記載されているが、それを確認した実験結果が数値に基づいて具体的には開示されていない。
 原告(出願人)は引用発明に対する有利な効果を証明するために、実験成績証明書等を追加提出した。
 審決は明細書の開示は単なる願望の表明に過ぎず、追加データを参酌する余地なしと判断した。
 一方知財高裁は、明細書には「曲りなりにも実験結果が記載されている」、「架空の実験を記載したものと断定することはできない」、「必要な実験をしなかったとする被告の主張は憶測の域を出るものでな」い、等の理由から、明細書の効果が確かに達成されることを示す証拠として追加実験データを参酌し、審決が違法であると判断した。明細書に開示してある効果は、たとえ具体的な数字が記載されていなくとも原則真実と推定し、記載された効果を裏付ける実験結果は進歩性肯定の資料として参酌しましょう、という判断が下されたと理解できる。

2.本願発明1
「細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結されたH19 調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する,腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクターであって,前記腫瘍細胞が膀胱癌細胞または膀胱癌である,前記ベクター。」

3.引用発明との一致点、相違点
 審決が認定した引用発明1との一致点および相違点は以下の通り:
一致点
 「細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結された調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する,腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクター」である点。
相違点(i)
 該調節配列が,本願発明1は,’H19’の調節配列であるのに対し,引用発明1は,H19の調節配列ではない点
相違点(ii)
 該腫瘍細胞が,本願発明1は,膀胱癌細胞又は膀胱癌であるのに対し,引用発明1は,膀胱癌細胞又は膀胱癌と特定されていない点

 審決では、本願優先日前に、調節配列としてH19調節配列は公知であったことなどを理由として、引用発明1から本願発明に至ることは容易であると判断した。

4.実験データ
 出願時明細書段落0078には、本願発明の効果を裏付ける試験結果として以下の通り記載されている。
「対照及び実験群の間で,腫瘍のサイズ,数及び壊死を比較する。シュードモナス毒素の発現は,マウスの実験群からの膀胱腫瘍内のH19の発現と同時局在化することがわかる。さらに,マウスの実験群の膀胱腫瘍は,マウスの対照群内の膀胱腫瘍に比べてサイズ及び壊死が減少している。」

 この部分は「現在形」で書かれており、具体的な数値は含まれていない。
 原告(出願人)は、段落0078記載の効果を具体的に示した実験成績証明書や、優先日後に出願人も筆者となって公開された、実験データを載せた論文を追加提出し、本願発明が、優先日当時の技術常識からは予測できない有利な効果を有することの立証を試みた。

5.追加実験データを参酌すべきでないという被告(特許庁長官)の主張
「本願当初明細書の実施例である9節(段落【0077】,【0078】)では,膀胱腫瘍モデルマウスにおけるH19調節配列を使用した遺伝子療法の一般的な方法が記載されているにとどまり,マウスに実際に投与する際の具体的手法等について記載されていない。実験結果についても,「マウスの実験群内の膀胱腫瘍は,対照群内の膀胱腫瘍と比較し,腫瘍の大きさが減少し壊死する」という記載がなされているにとどまり,具体的な腫瘍の計測結果や壊死の状況は一切記載されておらず,実験結果を客観的に確認できない。そして,9節では,他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に,他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に,現在形で実験結果が記載されており,実際に実験が行われたか疑問である。原告が真に実験を行っていれば,容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって・・・本願明細書の作用効果の記載(段落【0078】)は,いわば願望を記載したものにすぎない。原告が参考文献として提出する文献がいずれも本件出願後のものであるのは,この証左である。かかる具体性を欠いた記載をもって発明の作用効果を開示したものとすることは,何らの実験による確認無しに,憶測のみで多数の可能性について特許出願し,出願後に確認を行い初めて効果があると判明した部分について,その後参考文献や実験成績証明書と称してデータを提出することにより特許権を取得することを許す結果となって,出願当初から十分な確認データを開示する第三者との間に著しい不均衡を生じ,先願主義の原則にも悖るし,発明の公開の代償として独占権を付与する特許制度の趣旨に反する。」

6.追加実験データの参酌に関する裁判所の判断のポイント
「本願明細書の段落【0078】には,化学的に膀胱腫瘍を発症させたマウスに対し,H19調節配列を使用した遺伝子療法を施した実施例につき,「対照及び実験群の間で,腫瘍のサイズ,数及び壊死を比較する。シュードモナス毒素の発現は,マウスの実験群からの膀胱腫瘍内のH19の発現と同時局在化することがわかる。さらに,マウスの実験群の膀胱腫瘍は,マウスの対照群内の膀胱腫瘍に比べてサイズ及び壊死が減少している。」との記載があり(なお,最後の1文は,「膀胱腫瘍のサイズが減少し,膀胱腫瘍が壊死している」の誤りであることが明らかである。),本願発明1のベクターによって,マウスを使用した膀胱腫瘍に対する実験で,対照群に対して膀胱腫瘍の大きさが有意に小さくなり,腫瘍細胞の壊死が見られた旨が明らかにされている。
 そして,上記に加えて,本願発明1の発明者らも執筆者として名を連ねている論文である「The Oncofetal H19 RNA in human cancer, from the bench to the patient」(Cancer Therapy3巻,2005年(平成17年)発行,審判での参考資料1,甲10)1ないし18頁には,H19遺伝子調節配列を用いたベクターの効果について,①膀胱癌(腫瘍)を発症させたマウスにジフテリア毒素を産生する遺伝子(DT-A)等を誘導するプロモーターを使用したベクターを投与したところ,対照のマウスに対して腫瘍の平均重量が40%少なかったこと,②ヒト膀胱癌(腫瘍)を発症させたヌードマウスにDT-Aを誘導するプロモーターを使用したベクター(DTA-H19)を投与したところ,投与しない対照のマウスが腫瘍の体積を2.5倍に拡大させたのに対し,腫瘍の増殖速度が顕著に小さく,広範囲の腫瘍細胞の壊死が見られたこと,③膀胱癌(腫瘍)を発症させたラットに上記ベクターDTA-H19を投与したところ,対照のラットに対して腫瘍の大きさの平均値が95%も小さかったこと,④難治性の表層性膀胱癌(腫瘍)を患っている2人の患者に経尿道的に上記ベクターDTA-H19を投与したところ,腫瘍の体積が75%縮小し,腫瘍細胞の壊死が見られ,その後14か月(1人については17か月)が経過しても移行上皮癌(TCC)が再発しなかったことが記載されている。また,原告が提出する参考資料である「1.1 Compassionate Use Human Clinical Studies」と題する書面(審判での参考資料2,甲11)及び本願発明1の発明者らも執筆者として名を連ねている論文「Plasmid-based gene therapy for human bladder cancer」(QIAGENNEWS 2005,審判での参考資料4,甲13)にも,上記④と概ね同様の効果に係る記載がある。
 本願明細書の段落【0078】には,具体的に数値等を盛り込んで作用効果が記載されているわけではないが,上記①,②は上記段落中の本願発明1の作用効果の記載の範囲内のものであることが明らかであり,甲第10号証の実験結果を本願明細書中の実験結果を補充するものとして参酌しても,先願主義との関係で第三者との間の公平を害することにはならないというべきである。
 そうすると,本願発明1には,引用例1,3ないし6からは当業者が予測し得ない格別有利な効果があるといい得るから,前記(1)の結論にもかんがみれば,本件優先日当時,当業者において容易に本願発明1を発明できたものであるとはいえず,本願発明1は進歩性を欠くものではない。」

「被告は,本願明細書の9節では,他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に,他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に,現在形で実験結果が記載されているし,原告が真に実験を行っていれば,乙第6号証のように容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって,作用効果の記載(段落【0078】)は,いわば願望を記載したものにすぎない旨を主張する。
 確かに,本願明細書(甲7)の他の実施例に係る8,10,11節中には「結果と考察」欄がある一方,9節には同欄がなく,9節では現在形で実験結果が記載されている。しかしながら,段落【0078】を含む9節には曲がりなりにも実験結果が記載されているのであって,記載中の項目立ての体裁や文章の時制が異なるからといって,架空の実験を記載したものと断定することはできない。また,本願発明1の発明者らも執筆者に名を連ねている論文「USE OF H19 REGULATORYSEQUENCES FOR TARGETED GENE THERAPY IN CANCER」(Int. J. Cancer98巻,2002年(平成14年)発行,乙6)645ないし650頁には,膀胱癌(腫瘍)を発症させたマウスにジフテリア毒素を産生する遺伝子(DT-A)等を誘導するプロモーターを使用したベクター(DTA-PBH19)を投与したところ,対照のマウスに対して腫瘍の平均重量が40%少なく,平均体積も40%小さかったことが記載されており,これは前記(2)の④の実験結果と同趣旨のものである(なお,甲第10号証は2002年に発表した実験結果を引用している。)。しかしながら,かかる論文が存在するからといって,本願発明1の発明者らが,本件優先日当時に本願発明1のベクターを用いた実験を行っておらず,乙第6号証記載の実験がされるまで必要な実験をしなかったとする被告の主張は,憶測の域を出るものではなく,これを採用することはできない。