2009年9月13日日曜日

(1) 「1または数個の欠失、挿入又は置換を有するアミノ酸配列」が許容されない場合。(2) 手続き上の瑕疵と違法性。

平成21年9月2日判決言渡
平成20年(行ケ)第10275号審決取消請求事件

1.概要
 拒絶審決に対する取消訴訟。
 本件請求項1の発明:
「【請求項1】少なくとも8個のアミノ酸の連続する配列からなるポリペプチド中の部位に免疫学的に結合する,抗C型肝炎ウイルス(HCV)抗体であって,
ここで,該部位は,HCVに対する抗体によって結合され得,そして該少なくとも8個のアミノ酸の連続する配列は,以下のアミノ酸配列:
【化1】~【化3】(判決注:GlyからLeuまでの2436アミノ酸からなる配列,具体的配列はここでは省略)
中に1または数個の欠失,挿入,または置換を有するアミノ酸配列から得られる,抗体。」

 拒絶審決では実施可能要件違反が指摘されている。
 原告は審決取消理由2として、当業者は「(所定のアミノ酸配列中に)1または数個の欠失、挿入、または置換を有するアミノ酸配列」を抗原とする抗体に関する本発明は、過度の実験、試行錯誤を要することなく容易に実施することができることを主張した。
 原告はまた、審決取消理由3として、拒絶査定の理由とは異なる審決の理由は第二回の審尋において審判合議体により初めて告知され、原告は回答書において補正案を提示したものの、その後に拒絶理由通知は発せられず補正の機会も与えられないまま、審決がされたことは手続的瑕疵があり、違法である旨主張した。

 裁判所は、取消理由3については、「1または数個の欠失、挿入又は置換を有するアミノ酸配列」が許容される場合があることは認めつつも、本件の場合は理由がないと判断した。取消理由3については、特許庁側の瑕疵は認めつつも、結論に影響はなく違法性は認められないため、理由がないと判断した。

 ちなみに、新しい理由による独立特許要件違反を理由とした前置補正却下+補正前の請求項に対して拒絶査定と同じ理由で拒絶審決の手続きでは、補正却下理由を出願人に通知する必要はない。(知財高裁平成19年10月31日判決 平成19年(行ケ)10056号、本ブログ2009年5月8日記事)

2.判決抜粋
取消理由2について
「ア 原告は,旧特許法36条3項所定の実施可能要件の判断に当たり,本願発明が実施可能か否かは,本来任意に選択された一個の部分(本件では抗体)が生産及び使用をすることができるように本願明細書に記載されていることで足りると解すべきであるにもかかわらず,審決が「網羅的」に得ることが必要であるとした点には,誤りがあると主張する。旧特許法36条3項は,「・・・発明の詳細な説明には,その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果を記載しなければならない。」と規定する。特許権は,公開することの代償として,物の発明であれば,特許請求の範囲に記載された「その物」について,実施する権利を専有することができる制度であることに照らすならば,公開の裏付けとなる明細書の記載の程度は,「その物」の全体について実施できる程度に記載されていなければならないのは当然であって,「その物」の一部についてのみ実施できる程度に記載されれば足りると解すべきではない。したがって,原告の上記主張はその前提において失当である。

イ 原告は,バイオテクノロジー関連の分野では,実施可能要件は,すべての実施形態を網羅的に得ることを要求していないのが現状であり,それを要求することは,出願人に酷な結果をもたらし,ひいては発明を奨励するという特許法の趣旨に反し,著しく不合理であると主張する。
 
確かに,バイオテクノロジー関連の分野では,発明の詳細な説明において,「欠失,挿入または置換」されたすべての実施態様が具体的に記載されていなくても,特許請求の範囲において,特定のアミノ酸配列を示し,さらに同配列中の「1又は数個が欠失,挿入または置換」等がされた場合をも包含する形式での記載が許容される場合がある。
 新規かつ有用な活性のある遺伝子に関連した技術分野において,当該分野のすぐれた発明等を奨励する観点,及び,仮にそのような記載が許容されなかった場合に第三者の模倣を阻止できず,独占権としての実効性を確保できない不都合を回避する観点から,特許請求の範囲に,特定のアミノ酸配列等を示した上で,同配列中の「1又は数個が欠失,挿入または置換」等がされた場合をも包含する記載が許容される場合があってしかるべきであるといえよう。しかし,そのような形式で特許請求の範囲の記載が許される場合であっても,そのことが,当然に発明の詳細な説明の記載について,一部の実施のみの開示によって,実施可能要件を充足するものと解すべきことを意味するものではない。
すなわち,特許請求の範囲に,新規かつ有用な活性のあるポリペプチドを構成するアミノ酸の配列が包括的に記載(配列の一部の改変を許容する形式で記載)されている場合において,元のポリペプチドと同様の活性を有する改変されたポリペプチドを容易に得ることができるといえる事情が認められるときは,いわゆる実施可能要件を充足するものと解して差し支えないというべきであるが,これに対し,上記のような形式で記載された特許請求の範囲に属する技術の全体を実施することに,当業者に期待し得る程度を越える試行錯誤や創意工夫を強いる事情のある場合には,いわゆる実施可能要件を充足しないというべきである。
 本件では,特許請求の範囲の記載は,本願発明に係る抗体を得るためのペプチドのアミノ酸配列数が,わずかに「少なくとも8個」であり,かつ,同配列中の「1個または数個のアミノ酸が欠失,挿入または置換」を含めたものとされているが,発明の詳細な説明には,そのようなわずかな配列数で特定されたペプチドを基礎として,これと同様の活性を有するペプチドを得るための改変を含む態様が,当業者にとって,容易に実施できる程度に開示されているとはいえない。したがって,原告の上記主張は採用することができない。」

取消理由3について
「ア 特許法50条,159条2項によれば,審判官は,拒絶審決をするときは,特許出願人に対し拒絶の理由を通知し,相当の期間を指定して意見書を提出する機会を与えることを要する。ところで,審判官が,「C型肝炎ウイルス(HCV)に対する抗体」に「本件の特定HCV変異体に対する抗体」と「その他の天然に存在し得るHCV変異体に対する特異的抗体」が含まれ,
それぞれについて実施可能要件を欠くとの判断を示したのは,第2回審尋がはじめてであり,とりわけ,「C型肝炎ウイルス(HCV)に対する抗体」に「その他の天然に存在し得るHCV変異体に対する特異的抗体」が含まれるとの解釈を前提として,実施可能要件を欠くとの判断を示したのは,第2回審尋がはじめてであるから,その事項については,新たな拒絶理由に該当するというべきである。そうすると,審判官は,上記理由については原告に対して補正の機会を与えるために改めて拒絶理由通知を行なうべきであり,それを怠った本件の審判手続には,手続上の瑕疵がある。

イ 
上記の瑕疵が,審決の結論に影響を及ぼすか否かを検討する。以下のとおり,「C型肝炎ウイルス(HCV)に対する抗体」に,「その他の天然に存在し得るHCV変異体に対する特異的抗体」が含まれるとの解釈を前提にしない場合であっても,実施可能要件を欠くことは明白であるから,上記手続の瑕疵は,審決の結論に影響するものではない。
 すなわち,弁論の全趣旨によれば,上記の場合であっても,①本願発明では,8アミノ酸からなるペプチドにおける8個のうち1個のアミノ酸のみを置換する場合,ペップスキャンの対象となるペプチドの数は38万8640通りとなり,該ペプチドの調製とアッセイは12か月以上を要すること,②本願発明では「少なくとも8個のアミノ酸」とあり,エピトープが8個以上のアミノ酸で構成されている場合が想定できること,③元配列に対する抗体と反応するエピトープが必ずしも存在するとはいえないこと,④どのようなアミノ酸配列からなる部位にどのような抗原性があるかを合理的に推論することができないこと(元来抗原性を持っていない部位が変異によって新たな抗原性を獲得することは十分にあり得る。)等の事情を考慮すると,エピトープを探索するために,膨大な回数のペップスキャンを行なうことが必要となり,当該作業は当事者に期待し得る程度を越える過度の試行錯誤を伴うというべきであって,実施可能ということはできない。なお,原告は,第2回審尋に対して補正案を提出しているが,その内容も上記①,③,④と同様の理由から実施可能要件を欠く。したがって,原告の主張は理由がない。」